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毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年12月11日(火)20時02分13秒
返信・引用
  「イエスはこれを聞いて言われた、『丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である』。」

          聖書 マタイ9:12


病院は病気の人が来ます。健康な人には用事のないところです。信仰もそれと同様で、必要でない人には無用の長物、邪魔ものに過ぎません。「豚に真珠、猫に小判」ともいわれますが、確かに、求める人には貴重な物であっても、価値が分からず、必要でなければ迷惑です。イエス様の救いもあなたが救われたいと渇いて求めるとき、命となりますが、そうでなければ無益です。
 
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年12月10日(月)19時20分24秒
返信・引用
  「わたしは声を出して主に呼ばわり、声を出して主に願い求めます。わたしはみ前にわが嘆きを注ぎ出し、み前にわが悩みをあらわします。」

          聖書 詩篇142:1-2


ダビデがサウル王の手を逃れてほら穴に潜んでいるときの詩篇といわれています。まるで幼子が火のついたように泣き叫んでいる姿が浮んできます。ダビデはただ神様だけに頼るほかなかったのです。また、彼は神様に対して率直に、包み隠さず、心のうちを注ぎ出します。私たちもダビデにならって遠慮なく、幼子になりきって神様に求めようではありませんか。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年12月 9日(日)18時49分10秒
返信・引用
  「また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。」

          聖書 マタイ5:15



この言葉の前に、「あなたがたは、世の光である」とあります。神様は心に光であるイエス様を置いて、私たち自身を光としてくださいました。燭台は高く掲げて、少しでも広く、大きく照らして、闇を消し去るためです。光は物事の実相を明らかにし、明かりと陰を明示します。イエス様の光を高く掲げて、心の隅々を照らしてもらいしょう。
 

死者からの叫び

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年12月 7日(金)14時39分37秒
返信・引用
  『死者からの叫び』

父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が5人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることがないように、よく言い聞かせてください。

        聖書 ルカ16:27 28

ここに、この世の成功に酔いしれて、神を信ぜず死んでいった一人の金持ちの死後の叫びが記されている。彼は生前、自分の兄弟たちの魂の事など考えたこともなかったろう。彼は毎日この世の事に多忙を極め、作の出来高、羊の相場、兄弟たちの金繰りのこと、族長会や、長老会、村のもめごと、政治献金、税金対策、種種なお付き合いの宴会めぐり、毎日体がいくつあっても足りないほどで、とても、死後の世界だ、永遠の命だなどと悠長なことは、言ってられないと思ったであろう。どう考えて、どう生きよと、確かに来るのは死の現実、ついに彼にもその日が来た。葬儀も墓も最高だったが、辿り着いたのは火炎の地獄。そこで彼が第一に気がついたのは自分の生き方の間違いだったが、それは到底どうにもならない。そこで彼は第二の事に思いをはせる。それはまだ生存している彼の5人の兄弟たちの事であった。何としても、「彼らまでこんな苦しみの場所に来ることがないように、よく言い聞かせてください。」ということ。これこそ 我々の死んだ死んだ先祖の叫びである。先祖たちが自分の子孫に強く願っているのは、死者の霊への空しい供養や祭りではなく、地上に残る子孫たちが一日も早く福音を知り、永遠の命の恵みにつながることである。イエスを信じることこそ死者の霊への最大の慰め。先祖の霊は今日もそれを願って叫んでいるのだ。







 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年11月30日(金)09時51分35秒
返信・引用
  「イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた、『恐れることはない。ただ信じなさい』。」

       聖書 マルコ5:36


会堂司の娘が死にかけていたとき、イエス様に来て祈ってほしいと頼みました。しかし、すでに亡くなったと知らせてきました。そのとき、イエス様は「聞き流して」、信じなさいと勧めました。私たちにはあまりに多くの情報が耳に入り、信仰が持てなくなっています。聞き流すこと、これは信じるために大切なことです。イエス様ですら、そのようになさるのですから、神様の声にのみ耳を傾けましょう。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年11月30日(金)09時43分27秒
返信・引用
  「主が命じられたのでなければ、だれが命じて、その事の成ったことがあるか。」

           聖書 哀歌3:37


どんなことでも、神様のご計画、摂理によって現れ、堅く立ち、消えていきます。見えるところ、人の知恵や力、努力の結果のように思われますが、神様のゆるしがなければ髪の毛一本抜けません。人は神様を忘れて、自分がなんでも出来ると思っているので、「私の責任です」と偉そうなことを言います。自分の身ひとつ、持て余しているのが現実ですから、例外なく全てが神様の手にあることを認めて、へりくだりましょう。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年11月28日(水)10時09分27秒
返信・引用
  「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。」

         聖書 第二テモテ2:8



「イエス・キリストを、いつも思う」ことが福音だと言われています。それはどんなとき、どんなことにでも、イエス様だったらどうするだろうかと問いかけることです。心のなかでイエス様と対話するのです。そうすると、気づかないうちに、自分の行動、言葉遣いが変化してきます。思いがけないときに、忘れていたみことばを思い出させて、知恵や力を与えられます。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年11月16日(金)09時13分51秒
返信・引用
  「われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください。」

          聖書 詩篇90:12
この地上での生涯は永遠に続くものではありません。必ず、終わる時がきます。ただ、それがいつであるか、だれも知りません。そのため、いつまでも続くものと錯覚しています。始まりと終りを知って、今がどのような時であるかを自覚することが大切です。ある人の歌に、「今は人生の何章目だろうか」という言葉がありましたが、あなたはそれを知っていますか。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年11月 1日(木)19時18分50秒
返信・引用
  「わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました。万軍の神、主よ、わたしは、あなたの名をもってとなえられている者です。」

               聖書 エレミヤ15:16


言葉を食べるとは奇妙な言い方ですが、本意は神様の言葉に自分をぴったりと合わせることです。聞いてやり過ごすのではなく、食物の如く、咀嚼し、飲み込み、自分の一部にするのです。体に入ったものは姿かたちがなくなってもエネルギーとなり、行動を生み出します。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年11月 1日(木)18時59分20秒
返信・引用
  「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いてくださることとを、必ず信じるはずだからである。」

              聖書 ヘブル11:6


神様に喜ばれる人となりたいと願って、生活を立て直し、行いを慎み、努力しようとします。しかし、人がどんなに努力しても聖人君子になることは出来ません。また、神様はそのようなことを喜ばれるのではありません。みことばのように、神様を信じていっさいをゆだねきって生きること、これこそ神様に喜ばれることです。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年10月24日(水)18時52分32秒
返信・引用
  「されど主よ、あなたはわれわれの父です。われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。われわれはみな、み手のわざです。」

            聖書 イザヤ64:8


神様とわたしたちの関係は創造者と被造物です。ですから、私達に出来ないことがあり、欠けたものであることは当然です。人がなんでもできると思い上がることなく、造られたものに徹して、神様に信頼しましょう。しかも、私達は神様の作品であって、自信作ですから、神様の目から見ると欠けたものではありません。大切に養ってくださいます。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年10月22日(月)20時44分32秒
返信・引用
  「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」

          聖書 詩篇119:71


人生を生きるにあたって、悲しみや苦しみはないほうがいいと願います。しかし、生きる限りのがれることはできません。では、試練・悩みは何のためでしょうか。いろんな説明が出来るでしょうが、聖書が語っているのは、神様と出会い、神様を知り、信じて、神様と共に在る平安と喜び、望みと力を体験するためです。苦難は決してマイナスではなく、私たちを真の命に結びつける大いなる恵みです。
 

復活の信仰

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年10月15日(月)17時12分48秒
返信・引用
  【信仰短言】

「復活の信仰」  沖縄県 那覇バプテスト教会

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて、感謝しなさい。これがキリスト.イエスにあって神があなた方に望んでおられることです。」

         第一テサロニケ 5章16-18

聖書の中で最も有名な御言葉が上記の喜び、祈り、感謝、のお言葉でしょう。私たち自身も暗唱し、口づさむことの多い御言葉です。この御言葉が記されているテサロニケの教会では復活信仰について懐疑的な意見が強くあったようです。それを受けたパウロ先生はイエス様の復活についての詳しく述べ、復活こそが私達の信仰の土台であり、その信仰を大切にすることを勧められました。
5章はの締めくくりの部分となり、より具体的な信仰生活の勧めが列挙されています。
16-18節の「喜び、祈り、感謝、」はその一部なのです。よみがえりの信仰に立つ私達は、指導者を主にあって認めること、平和を保つこと、相手に相応しく言葉かけをすること、互いに善を行うこと、さらにイエス様にあって喜び、祈り、感謝、すること、また御霊をけさないこと、預言を重んじること、等をその信仰のゆえに守り行うのです。大切なことは繰り返されている「イエス様にあって」です。自助努力や、経験ではなく、これらを成し遂げることができるのは復活のイエス様にあって であることを覚えましょう。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年10月 8日(月)20時39分8秒
返信・引用
  「見よ、わたしは主である、すべて命ある者の神である。わたしにできない事があろうか。」

          聖書 エレミヤ32:27


「主」とは中心、根源などの意味を含むことばです。いうならば、全ての始まり、中心は神様であるという宣言です。人は自分が人生の「主」だと思っていますが、そうではなく、神様があなたの人生の「主」であり、「神」であるというのです。しかも「できない事」がない方です。この神様があなたを生かし、持ち運び、人生を終わらせるのです。神様の大能のみ手の中で、限りない愛によって生かされている幸いを感謝しましょう。
 

毎日の炉聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年10月 3日(水)12時44分3秒
返信・引用
  「愛する者たちよ。もし心に責められるようなことがなければ、わたしたちは神に対して確信を持つことができる。」

          聖書 Ⅰヨハネ3:21


日々の生活を送るうえで、もっとも幸いなことは心に平安があり、穏やかであることです。常に心が騒ぎ、苛立ち、失望の闇に閉ざされるなら、外的条件が恵まれていようと、その生活は悲惨です。そうならないように、しっかりと心を動かないものにしておきたい。ことに、心に責めを感じるなら、誤魔化さないで素直に神様の許しをいただいて、躓きの石を取り除けましょう。
 

天にも地にも。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 9月24日(月)19時53分5秒
返信・引用
  『キリスト者は 天にも、地にも、目を向けることだよね。』

私達キリスト者は天を仰いで、天の事に思いを馳せます。
それが信仰、信じて仰ぎ見ることです、
そして私達の国籍は天にあります。
しかしながら、
地上にいる間は、
私達は、訓練を受けている期間でもあります。
そこには、地上の権威もありますし、
キリスト者は地上の権威にも従わなければなりません。
私の国籍は天ですから、
地上の事など全く関心はありませんでは、通用しませんし、なら天の御国においても、
地上の訓練を放棄してきたのですから、
受ける祝福もやはりそれに見合うだけのものです。
しっかりと、地上の権威に従い、
訓練も終え凱旋した者には、その祝福も多いと思うのです。だから、
私達キリスト者も地上の事に疎くなってはいけませんよね。そう思います。
 

ある本より。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 9月 3日(月)13時57分50秒
返信・引用
  ーある本よりー

人のすることには非難がつきものです。

迷惑をかけてしまうような悪行でなく

善行であるかぎり

自分が信じたことをやるべきです。

天才アインシュタインは、

「バカを試みる者だけが、不可能を可能にできる」

と語っています。

正しいことでも周りの無理解から

バカを試みる者と非難されることもあるでしょう。

周囲の非難ばかりを気にしてると

何も出来ずに人生が終わってしまいます。

何事も最初から判断を誤らず成功することは

誰でも難しいことです。

失敗は成功の礎ですから、

周りの非難を恐れず、

強い決定心を持ち、

人生を有意義に過ごしたいものです。

信念を貫き通すには、

不安や恐怖がつきまとってきますので、

いつも冷静な判断ができるように

瞑想で心を冷静に保つことが

とても大切になります。

.

「沈黙している者も非難され、

多く語る者も非難され、

すこしく語る者も非難される。

世に非難されない者はいない。」






 

お盆に想ったこと。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 8月26日(日)10時51分42秒
返信・引用
  “Be Not Conformed To This World”.

『この世と調子を合わせてはいけません』と言いますが。


お盆の時、キリスト者は特に気を使いますよね。
心の中で、他の信仰とのせめぎあいが発生するからです。
厳格なキリスト者の方たちは、
その事柄に、一切 関与するなと言います。
クリスチャン家庭や、クリスチャン家族なら、
それは、たやすい事でしょう。当然でしょう。
しかし、
私を含め、
家族の中で、キリスト者は自分だけという場合があります。
この人たちは、
仏教やその他の先祖伝来の信仰を持っていることがあります。
そこで、祖先や、家族の信仰を、
自分がキリスト者として、忠実にあろうとして、
それらから遠ざかろうとしますよね。
私もそうでした、
しかし、
その時思いましたね、
自分がキリスト教信仰を持ったからと言って、
家族の信仰を無視し、否定し、
仏壇は廃棄せよ、
そんな家族とのかかわりは、絶てと言えるでしょうか?
聖書に書かれていることは、
「この世と調子を合わせるな」
「私のためにあなた方は憎まれる」
など、ありますが、
では、キリスト教界に、お尋ねしますが、
そもそも キリスト教界が聖書に忠実ですか?
世と、調子を合わせ、変化をしていることがありませんか?
それを言うのであれば、
それらも、一切 認めてはいけないということになります。
私が言うのは、
偶像礼拝をしない、神は一つ、これは、当然のことです。
キリスト信仰の基軸です。
ただね、それは、己が選択したものですから、
己の時代が到来した時に、
家族とは別に、実行すればいいのです。
親が先祖伝来の虚しい神々を信じていたとしても、
それは、尊重してあげるべきことなのです。
その親が、キリスト教に変わりたいと願えば、
その時、そうしてあげればいいだけの事ですし、
そうするためにも、虚しい神々の中で、
素晴らしい証をしていけばいいのですよね。
虚しい信仰の中にあっても、
自己の心の中に、
イエス.キリストが、脈々としっかりとあるのなら、
赦される範囲で、
このお盆とか、葬儀に かかわればいいのです。
それこそが、キリスト教の伝道にもつながります。
このように、否定することばかりではなく、
肯定できるファクターも存在するのです。
要は、自分次第というわけです。
そこにかかわって、信仰を失う程度の人なら、
関わりなさんなということです。
ちなみに、
私が元いました ?ものみの塔?というところは、絶対にかかわらないことを教団の命令として発していました。
その結果、
私達が知る エホバ信徒の家族が、その信徒を連れ戻しに来て、大変なことになったことが何回もあります。
教団も、信用を失墜したのです。
どうですか、
キリスト教正統派も、このようになりたいのでしょうかね。
私達の信仰は、私達以後の世代に、かかっています、
家族がキリスト教への理解を示すためにも、
その信仰を尊重するという方向は、考えられませんか?
異論は数々あるかもしれませんが、
私個人は、そう思います。

参考までに

私達の信ずる唯一の全知全能なる神は、創造主は
他の虚しい神々と、その信徒の存在を許してあります
イスラム教、仏教、その他も。。。。。
そして、その全知全能の神は、
全てのその上に位置する神なのです。
私達の唯一なる神は、そのように、大きくて、寛大なのです。






 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 8月20日(月)10時52分33秒
返信・引用
  与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから。」

               聖書 ルカ6:38


人は握ったものは手放さないように、持っているものは減らさないようにしようと保守的になります。それでは信仰に立つことができません。イエス様は私たちに与えなさい、空にしなさいと勧めます。そうすれば満たされ、溢れるようになるからです。神様は必ず報いてくださいます。
 

当たっているかも。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 8月13日(月)14時21分0秒
返信・引用
  『ある教派に見る特徴的な性格。』

私は、「ある教派に見る特徴的な性格」の事を書いてある本を読みました。

どことは言いませんが、こんなことを書いてありました。

権威への服従を嫌い、

個人の良心自由を大事にし、

他人の信仰に干渉しない、

自分を相対的に眺め、少数派の立場になって考える、

信仰者としては、あくまでイエスを師とする道を歩むが、

他宗教の信者には、そこに救いの道のあることを認め、

共に神の愛のもとに生きる者として、尊重する。

もちろん、不可知論者や無神論者への偏見もない。

はっきり言って、

その教派は私が好む教派ではありませんが、

なんか 近いものを感じて、ぞっとしています。

この例の中で、

いくつか そうかいなというものもありますが、

当たらずしも遠からじです。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 7月28日(土)22時23分55秒
返信・引用
  しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。」

           聖書 ヘブル4:2b


神様の言葉は聞くだけで終わる限り、それはただの言葉にすぎません。大切なのは信じて心に受け入れ従うとき、神様の力が具体化されます。信仰に立ち生活の細部にわたって御言を実践するのです。それをしなかったために、神の民は約束の地カナンに入ることができませんでした。神様の言葉を知りながら、見ること、聞くことによって左右され信仰に立てなかったからです。
 

道の光

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 7月24日(火)21時00分50秒
返信・引用
  『人にはできないことが、神にはできるのです。』

       聖書 ルカの福音書 18:27

信仰とは常に神を計算に入れてものを考えることを言います。
信仰のない人はいつでも自分を基礎にしてものを考え、
人間の能力で事をはかります。
できるとか、できないとか言うときは、
人間にできるかできないかを言っているのです。
そして
それ以上の事を考えようとは致しません。
しかし
イエス様は人間の力の及ばない所に働く力があると仰せられました。
それは 神の力であります。
「人にはできないことも、神にはできる」というのが
本日の聖句の意味です。
どんなことの中にも、失望しないで神を見上げて立ち上がりましょう。
人間にはできなくても 神には不可能はないのです。

●神にあって大事を計画せよ。
●あなた方の言葉が、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしな さい。(コロサイ 4:6)

《お祈り》

天の父なる神様
ともすれば 心が弱くなりやすい私共に、
もう一度、神様を計算の中に入れよ、と教えてくださいまして
感謝いたします。
信じて進みます。

聖名によって お祈りいたします。

アーメン

ーみちの光ー
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 7月 9日(月)10時56分35秒
返信・引用
  「平穏であって、ひとかたまりのかわいたパンのあるのは、争いがあって、食物の豊かな家にまさる。」

          聖書 箴言17:1


『衣食足りて礼節を知る』と昔は言われたものです。豊かになれば、人はみな穏やかになり、平和になると思われましたが、今やあり余るほどのものに囲まれながら、争い、不平、無気力がはびこっています。全てのものの根源であり、供給者である神様を忘れた結果です。小さなことから、大きなことに至るまで、全てが神様の恵みによることを認めて、喜びに溢れて感謝する者となるならば、「かわいたパン」も山海の珍味となるでしょう。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 6月28日(木)20時27分31秒
返信・引用
  「わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。」

          聖書 申命記30:19bc


神様の救のみわざはイエス様の十字架によって完成しています。それに付け加えるものはなにもありません。ただ選択と決断が私たちに委ねられています。事の大小を問わず、すべてのことには「命と死」「祝福とのろい」のいずれかを選び、決断することです。神様が私たちを滅ぼされるのではなく、自分が死とのろいを選ぶからです。どうぞ命を選んでください。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 6月26日(火)11時11分40秒
返信・引用
  「あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している。」

          聖書 マルコ7:8


世の人の言葉や先祖伝来の言い伝えなどはたやすく信じ込みます。ところが、神様の言葉、聖書の言葉をなかなか信じようとしません。神様の言葉(いましめ)を素直に信じるにはこの世の常識、言い伝え、習慣などを離れなければ信じられないからです。神様の言葉は人の知識や理解力を超えたものです。私達は固定観念に縛られ、そのため狭く限られた選択肢しかありませんが、神様の言葉を信じると無限の可能性が出てきます。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 6月21日(木)21時57分46秒
返信・引用
  「さばきづかさが世を治めているころ、国に飢きんがあったので、ひとりの人がその妻とふたりの男の子を連れてユダのベツレヘムを去り、モアブの地へ行ってそこに滞在した。」

               聖書 ルツ記 1:1


エリメレク一家は飢きんによって、「ユダのベツレヘム」を去りました。これが不幸の始まりです。彼らは神様の祝福の地を離れたのです。確かに飢きんは苦しい事でしょうが、そこに留まる人もいました。モアブの地で食糧は得ましたが多くのものを失いました。まさに信仰の試練のときです。あなたはどの道を選びますか。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 6月19日(火)20時23分51秒
返信・引用
  「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。」

               聖書 マタイ5・46


そりの合わない相手がいても、無視したりつっけんどんに遇したりせず、穏やかに対することができますように。
 

無関心

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 6月18日(月)17時08分26秒
返信・引用
  『人の各々が 他に何も関心を示さない時。』

良く、あなたはあなた、私は私と、
一見 合理的に見える思考があるよね。
では、
己が 己が、とそういう思考を持ったとしよう。
今さえよければいい、人の事など気にする必要はない、
人の事などかまう時間があるのなら、
自分をもっと磨けよ、もしくは、自分が楽しければいいと。聖書には、
他の人とかかわりを持つ大切さを、とうとうと教えている。
なぜなら、
そうすることが、良きサマリア人でもわかるように、
強盗に襲われた、異邦人にすら、関心を持って、
傷の手当てもしてあげられるのだ。
ここにおいて、
人とのかかわりの大切さと、
無関心でいてはいけないという
神の教えが結実するのである。
今、自分の信仰を維持するために、
他の教会員に、無関心な人たちがいる、
本人は それでよかろうが、
他の信徒から見れば、
恐ろしく、冷たい信徒と見えることだろう。
また、
教会に くしくも 初めて来訪した方たちには
どうそれが映るのであろうかと危惧する。
当世、
自己完結する世界かもしれないが、
教会は、人の心をある意味表現する場だ、
イエス様も言った、
行って同じようにしなさいと、
私共は、決して、無関心であってはならないのだ。
 

アーサーホーランド牧師のメッセージ

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 6月11日(月)22時01分23秒
返信・引用
  アーサーホーランド牧師の記事をシェアーさせていただきました。
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『HEAVEN AND EARTH(天と地)』

『天と地がなければ
 人は存在しない…』

教会は建物ではない…
この宇宙、また自然界こそ、
教会なのである。

「天はわたしの王座…
 地はわたしの足台…」
とTHE BIBLEにある。

大空に夜空…
太陽の日差しに月や輝く星々…
また、ゆったりと浮かぶ雲たちは、
大いなる方の家の天井であり、
草原や砂漠…、大海原に大地は、
大いなる方の家の床なのだ…

鳥のさえずりに虫の音…
また、川のせせらぎに
岸辺に打ち寄せる波の音…
そして、風が
森や林を駆(か)け巡(めぐ)り、
木の葉たちが奏でる音色は、
大いなる方の家の賛美歌である。

「あなたはわたしのために、
 どの様な家を
 建てようとしているのか…
 天地万物はみな、
 私の御手(みて)が
 造ったではないか…」
と謳っている。

世の宗教の枠(わく)から
一歩踏み出すことである。
その時、あなたは
大いなる方の家の中に
すでにいる自分に
気づけるのかもしれない。

今日という日が、
もうすでにあなたのためにある
大いなる方の家の中にいる自分に
気づける日となります様に…

『建物の中よりも
 自然の中にこそ本質にふれられる』

アーサー・ホーランド
 

神の家族

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 6月11日(月)21時09分43秒
返信・引用
  『神の家族』


私達、キリスト者は神の家族とも言いますよね。
家族とは、
悪いことをしたりした時には、叱ったり致します。
また、
良い事をしたときは褒めますよね。
そのように、神の家族という以上、
その一人一人は、主にあっての家族なんです。
だから、
表面だけを見て褒めることばかりをしてはならないのです。
時には、
叱咤激励も、苦々しいことも言うのです。
その対象が、たとえ 宗教指導者であろうともね。
それが本当の家族というものなのですよね。
指摘を裁かれているとしかとらえられないようなら、
それは、家族などではありません。
心配するから、指摘するのです、
子供が、わがままを言っている状態とか、
親の意見を聞かない時は、
家族であれば、注意するでしょう。
そのように考えることが大切です。
家族ならばこそ、注意するのです。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 6月10日(日)23時29分16秒
返信・引用
  「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。」

           聖書 マタイ9:12


確かに、医者を必要とするのは病気の人です。自分が病んでいることを自覚し、治りたいと願う人が医者のところへ行きます。その自覚がない人は、いくら病んでいても医者を求めません。同様に、自分の罪を知り、弱さを認め、神様の救いを願わなければ、イエス様を求めません。自分を省みて、不安や恐れ、怒りやつぶやきなどに満たされているなら、平安と望み、愛と喜びを求めて、神様に帰ろうではありませんか。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 6月10日(日)21時27分33秒
返信・引用
  「あなたがたは、なにゆえ神のようにわたしを責め、わたしの肉をもって満足しないのか。」

             聖書 ヨブ19:22


不条理な苦しみに遭ったヨブのもとに、友人たちが慰め、励ましにきます。しかし、彼らの言葉はヨブにとって苦痛を増幅させるものにすぎません。彼らは自分を神のごときものとして、その義によってヨブを責め立てる結果になりました。私たちも彼らと同輩です。神様のように責める。これこそ人の心にある抜きがたい衝動です。また、このゆえに人間関係を不毛にし、この世を荒野にしているのです。
 

キリスト教界の二面性

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 6月 8日(金)22時18分29秒
返信・引用
  『キリスト教界の二面性。』

賛美において、

●神様に捧げる賛美だから、失礼のないように、完成度を挙げた賛美を 捧げることが大切。

●神様に捧げる賛美だから、上手下手よりも 捧げようとする心が なにより大切。

祈りにおいても、

●神様に捧げる祈りだからこそ、きちんとしなければならない。

●神様に捧げる祈りは、上手でなくとも良い、素直に思ったままに、神様に直接語ることが何より大切。

これは、一例でして、まだまだ他もありますね。

要は、

神様に対して、あくまで失礼のなきように、配慮する方と、神様の御前に 素直に、語り、ありのままを表現する方との二つがありますね。

牧師自体も、そのように指導する方たちが おられますね。

正直 一体どっちやねんと思います。

私は、もちろん、形式ばった、マニュアル的なものは嫌いますから、
当然、神様と、自然体で、向き合える方を選択します。

人それぞれですから、なんとも言えませんけどね。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 6月 8日(金)22時12分50秒
返信・引用
  「イエスは言われた、『手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである』。」

            聖書 ルカ9:62


「すき」は田畑を耕す道具で、鋭い刃を備えた物です。この作業中にうかつに気を抜くと、命を失う危険があります。同様に、イエス様の声を聞いて従うのはまさに命がけでなすべきことです。主のみ声を聞きつつ、他のことに心奪われるなら、命を失う危険が大いにあります。救の完成と言う大事業に向かって踏み出した私たちは、イエス様の声にのみ全神経を集中させ、みことばに従おうではありませんか。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 6月 6日(水)19時59分1秒
返信・引用
  「人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのでなく、キリストの僕として心から神の御旨を行い、人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい。」

               聖書 エペソ6:6-7



イエス様を信じて新しい命に生きる生活は、神様のしもべとなって生きることです。この世にあって果たすべき役割を家庭や職場、学校や地域社会などでそれぞれ持っていますが、そのような活動を通して、神様に仕えるのが私たちの使命です。人間関係をうまくやることより、神様との関係に重点をおくのがイエス様を信じる信仰に生きる生き方です。
 

見返りを求めていた自分

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 6月 4日(月)11時19分26秒
返信・引用
  『見返りを求めている自分に反省。』
今朝 ある交通量の多いところで、他の小道から、合流しそうな車がいたので、私は、車の流れに、空間を意識的に作って、入らしてあげようとした。当然、相手は、合流してくる、そして お礼のハザードか、ペコリと時宜をするかと思いきや、知らぬ 存ぜぬ で、当然のような顔をして、それも、荒い運転で、走り去っていった。その後、私は、こういう性格ですから、腹が立った。でも、 よく考えると、相手に見返りを求めて、善意の行動をしたのである、その後、相手に見返りを求めるから、腹が立つのであって、見返りを求めないなら、何でもないことなので、そのようにしようと思った。前から、わかっていたことだが、いざとなると ついつい その考えになります。反省。
 

十字架

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 6月 1日(金)20時39分22秒
返信・引用
  十字架


ある教会は、信徒が教会員ともめて、躓きそうになると、人を見ないで、ただ主のみを見上げましょうと。また、ある教会は、主のみを見上げて教会生活を送っていると、十字架を見てください、縦に神様とつながり、横に聖徒の交わりがありますよね、このように、主だけでなく、教会員との交わりも大切にしてくださいねと、なにか、一体どっちなんだと、言わんばかりのことを語りますが、要はバランスなのでしょうね。ただ、これも万全ではなく、主のみを見上げると、恐ろしく無関心な信仰となります。また、聖徒の交わりを重点に置くと、人間関係で、重篤な精神状態となります。だからと言って、バランスよくこれを保てるかといえば、至難の業です。だから、教会生活は、ある面、難しくもありますよね。でも、中には、教会生活が楽しいと言われる方もあるのですから、うまく教会生活をされてある方もいるということですよね。教会の雰囲気にもよるのでしょうね。願わくば、雰囲気の良い教会であってほしいですよね。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 5月30日(水)21時29分23秒
返信・引用
  「もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない。」

          聖書 第一コリント8:2
「知識は人を高ぶらせ…」と聖書にありますが、誇るに足るだけの知識があれば、納得できます。しかし、案外、知ったかぶりの半可通ほど高慢になるものです。殊に神様については、どんな人でも知り尽くすことができません。謙遜とは知るべきものすら知らないことを自覚している人ではないでしょうか。謙遜になって、主を知ろうではありませんか。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 5月28日(月)15時18分20秒
返信・引用
  「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。」

               聖書 マタイ9:12


確かに、医者を必要とするのは病気の人です。自分が病んでいることを自覚し、治りたいと願う人が医者のところへ行きます。その自覚がない人は、いくら病んでいても医者を求めません。同様に、自分の罪を知り、弱さを認め、神様の救いを願わなければ、イエス様を求めません。自分を省みて、不安や恐れ、怒りやつぶやきなどに満たされているなら、平安と望み、愛と喜びを求めて、神様に帰ろうではありませんか。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 5月28日(月)10時15分32秒
返信・引用
  「すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。」

        聖書 第二コリント4:15


「神様の栄光」を現すなどと言うと、大変なことだと思ってしまいます。何をすればいいのかと戸惑いますが、実はとても簡単なことです。みことばにあるように神様の恵みを感謝することです。しかも、そこそこの感謝ではなく溢れるばかりに感謝するとき、それが神様の栄光となるのです。あなたが神様を褒め称え、感謝讃美することを願っておられます。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 5月26日(土)09時51分20秒
返信・引用
  「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。」

         聖書 コロサイ3:16



信仰が形成されるには、キリストの言葉、聖書の言葉を聞くことから始まります。次に、聞くだけでなく、その言葉をいつも心に置いて生活することです。「宿らせる」とは、記憶する、暗記することばかりではありません。実生活の中の出来事に当てはめ、自分の考え方や心の動きをそれに添わせていくことです。その為には、いつも言葉に接して、味わい、信じ、従うほかありません。
 

行ってはいけないカルト教会

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 5月20日(日)17時34分4秒
返信・引用
  【行ってはいけないカルト教会の特徴 】

知恵ノート 聖書 キリスト教 カルト 教会

近年、通常のキリスト教会がカルト化傾向にあります。聖書を知らない人ほど惑わされてしまいますので、教会に行く前に自分でまず聖書を読むことをおすすめします。



聖書は信仰を持って「神様が自分(読者)に語りかけてくれている」と思って読むならば、神様自身が導きを与えて下さり、「聖書の本質(神の愛や信仰)」に関しては、誰からも教わらなくても分かるようになっています。

「牧師に教わらないと分からない」「信徒では理解できない」とは思わないでください。



また「大きい教会(たくさんの人が集う教会)ほど安心」というのは、間違いです。実際は、大きい教会ほど聖書から離れている傾向があります(カトリック教会やプロテスタント内リベラル派・エキュメニカル派)。

聖書の教えよりも人々(罪びと)が好むような「世的な教え」をした方が、じつは人はたくさん集まるものです。



以下に、カルト教会、あるいはカルト化傾向にある教会の特徴を挙げておきます。該当する項目が多いほど危険と判断してください。



<教えに関して>

①聖書以外のテキストを頻繁に使う

②有名な(大きな教会の)海外の牧師・説教者・リバイバリストなどの教えをそのまま信奉する(やたら「○○先生がおっしゃっている」などと言って、聖書よりも有名説教者に従わせようとする)

③聖書を均等に学ばずに、同じ箇所ばかり強調する

④セカンドチャンス(死後にも救いの可能性がある、という非聖書的教え)を認める

⑤チョー・ヨンギ(自己実現・成功哲学・肯定思考)、リック・ウォレン(キリスト教にイスラム教を混合させた教え、エキュメニズム、マーケティングによる教会形成)、ベニー・ヒン(拝金主義、偽預言者)、ピーター・ワグナー(自称「使徒」・権威主義)、リック・ジョイナー(偽預言)、シンディ・ジェイコブス(偽預言)、ビル・ジョンソン(自称「使徒」、ニューエイジ思想、繁栄の神学)が好き

⑥解釈が曖昧な(明確にされていない)聖句に対し、「この聖書箇所は、実はこういう意味です」と説明して、新種の教えを作り出す



<牧師の態度>
①牧師の権威が強い(「神様に従うことは、牧師に従うこと」とそれらしい事を言って、隷属させようとする。牧師に従わないと「神に反逆している、悪魔にやられている、地獄に落ちる」などと脅す。)

②「裁いてはいけません、赦しましょう」と言って、牧師の間違いを指摘することを封じる

③「弟子訓練」と言って、キリストの弟子ではなく、牧師に従順な信徒作りをしている

④ほかの教会・集会に参加したり、自分の教会(堂)以外のところで信徒同士が合う事を嫌う(牧師・指導者による信徒管理・支配体制)

⑤やたら大声で説教するなど、威圧的な口調



<教会の方向性、信者の雰囲気>

①初めのうちは牧師・教会員みんなで大歓迎する(ラブ・シャワー攻撃:その教会に依存する性質を持たせるため)

②「教会成長」「ビジョン」「勝利(勝ち取る)」「打ち破り」「示された」「祝福」「権威」「霊的」「戦う」「油注ぎ」「変革」「解放」という言葉を好む
③「セル・グループ」という名の信徒管理システム(特に、セルで牧師の教え以外を語ってはいけない、という場合)の導入
④病気になったりすると「信仰が足りない」と責める、病院に行かせず信仰(祈り)で直せ、と勧める

⑤牧師の前や信者の前で、罪の具体的な悔い改め告白をさせ、恥をかかせてその人の精神を追い込む

⑥否定的な言葉を一切言ってはいけない、いつも肯定的な言葉だけ告白しなさいと言う(「信仰の言葉(ワード・フェイス)」と呼ばれる、この世の肯定思考・自己実現主義)

⑦聖書よりも「病の癒し」「奇跡」「不思議な現象」「個人的体験談(霊的直感)」「流行の教え」に心を注いでいる

⑧断食や長時間の祈りなど、自分の信仰深さ(熱心さ)を自慢げにしている

⑨自分の教会こそ、優れた教会だと思っている

⑩牧師のご機嫌を取る、取り巻き連中(イエスマン)がいる

⑪ユダヤ教(旧約聖書)の祭りなどを実際に行う

⑫やたらと禁止事項が多い(情報統制)

⑬何かと「悪魔・悪霊の仕業」と結論づける

⑭自らの高揚感や興奮を求めている

⑮終末の危機感をあおる

<献金や奉仕>
①十分の一献金の強要、集会参加の義務化

②教会に献金をたくさんすると、捧げた人は(特に経済的に)祝福されるので、できるかぎり多く献金するように強く勧める(「繁栄の神学」というご利益信仰)

③たくさん献金をしている信徒をチヤホヤする
④教会内の奉仕をたくさんさせる(疲れさせて、正常な判断力を鈍らせる)

⑤教会会計(献金の使われ方)の報告をあまりしなかったり、内訳が大雑把だったりする



*直接その教会に「安全な教会ですか」などと聞いても、みな「うちは正統派で安全です」というに決まっていますので、ネットなどで悪い噂がないかどうか、かならず確認してください。

*ちなみに、「地域教会に所属していなければ救われない」という教えは聖書にありません。聖書に書いてあるとおりのキリストを信じることによって、人は(目には見えない本当の意味での)教会の一部となるのです。


 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 5月20日(日)12時02分47秒
返信・引用
  「わがたましいよ、主をほめよ。わがうちなるすべてのものよ、その聖なるみ名をほめよ。わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ。」

              聖書 詩篇103:1-2


神様をほめたたえ、感謝することは私たちの力であり、喜びです。命も健康も、日々の生活も仕事も家族も、どれをとっても神様によらないものはありません。しかし、人は自分勝手に事の良し悪しを決めて、神様を忘れ、感謝なく、不平不満、つぶやき憤りに心奪われて過ごしています。小さなことから大きな事まで、神様のめぐみばかりです。「主よ、感謝します」と叫んでください。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 5月18日(金)09時55分46秒
返信・引用
  「しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」

            聖書 黙示2:4



「喉もと過ぎれば熱さ忘る」と言われるように、何事でも最初の感動や恐怖など、時が過ぎると忘れてしまうものです。それもまた幸いなことでもありますが、忘れてはならないことがあります。殊に、神様のご愛を知り、救われた喜びと感謝は決して忘れてはなりません。花嫁のときの新鮮で初々しい思いを主に対して持ち続けたいものです。焼き冷ましの餅のような、固く、無感動な心を砕いて、喜びを新しくしましょう。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 5月11日(金)22時04分52秒
返信・引用
  「兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、…。」

              聖書 ピリピ3:13



時は川のように流れているといわれます。確かに、とどまることなく進んで行きます。私たちはその流れに持ち運ばれて、繰り返すことの出来ない「時」を生きています。しかし、人は過去を手繰り寄せて、今の時に亡霊の如く呼び戻そうとします。それはまことに無駄・無益なことです。「後のもの」をすっかり忘れて、前に向かって踏み出してください。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 4月30日(月)21時13分24秒
返信・引用 編集済
  「今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。」

               聖書 ヨハネ12:27


主は決してスーパーマンではありません。私たちと同じ人となってくださいました。だから、十字架の死を前に心が騒いだと告白しています。しかし、主は果たさなければならない使命がありました。私たちにも一世一代の決断を迫られるときがあります。「このために、この時に」求められることを避けることはできません。神様があなたに求められるとき、覚悟して臨もうではありませんか。
 

人ではなく神を見上げてというけども。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 4月28日(土)14時51分31秒
返信・引用
  『人ではなく 神を見上げて。』


これは、教会でよく耳にする言葉です。
人は不完全なもの、人は欠けた存在、だから、教会内では、信徒のどのような言動に傷つこうが受容しそれらを見るのではなく神を見上げて教会に来なさいと取れますよね、そして、そうでしょう。しかしですよ、はっきり言います。はじめから、神を見上げてくる方などは、いるわけがありません。そもそも、信仰になぜ関心を持ったかと聞くと、一番多いのは、友人知人がキリスト教の信者で、その方が、やさしい方で、心配りのある方だから、その方の通っているところに行ってみたいと思ったのと、こう来ます。このことを教会は、信徒は、ついつい 忘れがちです。神様を見上げるのは、信仰の深まりと共にそうなるのです。教会としては、先ず神ありきと 言いたいでしょうが、現実は、牧師の人柄、信徒の人柄によるものが大きいのです。牧師が、信徒が、しっかり証をしているということなのです。特に、牧師は、教会の顔ともいわれていますよね。だから、教会は、ことあるごとに、信徒同士、気遣いなさいと、互いに愛し合いなさいと、ことあるごとに、諭すべきです。あたかも、教会で躓けば、躓いた信徒が落ち度のあるように、すり替えないことだと思いますよ。また、極論を言いますが、犯罪被害者に 人間は、もともと悪い人は いないのよと言うようなものです。犯罪に合えば、人間恐怖症になるのは、当然のことなのですよ。教会で被害に合われた信徒に、私の教会は楽しいし、そんなことはないですからなどと、言おうものなら、もう、二度とその信徒とは、交わることはありません。被害にあった教会は現に存在し、その行動は、現にあったからです。それを全否定する心無い言葉は、信徒を教会から、離れさせますし、信仰を失わさせてしまいます。だから、要注意です。あなたの教会では、そういうことがなかったかもしれませんが、この信徒の教会では、あったことなのです。それを理解してあげないと逆に神様を悲しませる結果になるのです。人ではなく、神様を見上げてという言葉は、時として、教会の弁護に利用されたり、信徒の弁護に利用されたりして、責任転嫁に利用されるものなのです。教会信徒は、しっかり、そのことを理解すべきです。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 4月23日(月)12時39分45秒
返信・引用
  「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。」

         聖書 コロサイ3:23


これはイエス様の救を受けた者の基本原則です。私たちは主に召された僕です。私たちのすることはすべて主のためにしている事です。生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。日々の生活、家庭でも職場でも、どこにあっても、誰かのためにしているようですが、人のためではなく、主のためにするわざです。だから、それに報いてくださるのは人ではなく、神様です。エジプトへ売られたヨセフを見てください。彼の生涯は神様の手に委ねたものです。
 

アーサーホーランド牧師のメッセージ

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 4月23日(月)11時51分16秒
返信・引用
  アーサーホーランド牧師の記事をシェアーさせていただきました。
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『AN ANSWER IN CONTRADICTION(矛盾の中の答え)』

『矛盾と思える問題の只中に
 あなたを成長させる答えがある』

頭に来ることはあるだろう…
怒り心頭に発して、
こんな気持にした人を
ののしりたくなることだってある。

「互いに愛し合いなさい…」
と魂のロッカーは語るが、
愛し易い人なら愛せるが、
愛しにくい人まで愛せよ…と言われると
「無理だ…」と思ってしまうのは
当り前のことである。

人間は聖人君子ではない。
それは歴史の中で人々がつくりあげた
身勝手な偶像である。

「聖や義」を語られても、
実行するとなると
無理な話になってしまう。

聖人と見なされているマザーテレサは
素晴らしい人と思えても、
同じ年に
スキャンダラスな事故で亡くなった
ダイアナ妃に、
凡人たちの同情と共感が及ぶのも
事実といえよう。

THE BIBLEには、
「人は誰であれ
 みんな罪人なのだ…
 義人などひとりもいない…」
とある。

罪とはあわれみと恵みの源、
すなわち本質からの愛に
背を向けて生きることをいう。
要するに「ぶれ」て、
また「外れ」て生きることなのだ。

JESUSは、
「聖書の教えの中で一番大切なのは
 心と思いと知性と力をもって
 あなたを創造し、生かしてくれている
 大いなる方を愛すること、
 そして同じ様に大切な教えは
 心と思いと知性と力をもって
 自分自身を愛する様に
 あなたの隣人を愛することだ…」
と謳っている。

あなたが誰かを愛する以前から
空気があなたを包んでいる様に…
今迄も、またこれからも、
あなたを愛し続けてくれている
永遠の愛の本質がいることを
忘れない様に…

今日という日が、
人生の矛盾の中にあっても、
大切な答えを
見出せる日となります様に…

『白か黒かは分かり易いが、
 人生の答えは
 灰色と思える矛盾の中で見出せる』

アーサー・ホーランド







 

信仰短言より

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 4月23日(月)09時49分12秒
返信・引用
  「人の子は 失われた人を捜して救うために来たのです。」

         聖書 ルカ 19章10節

主キリストは 「失われた人」を捜して救うために地上に来られた。
失われた人々といわず 失われた人と個人を捜している。
神に選ばれ 教会に来て礼拝に出席して神の家族となったのに
教会を離れている兄弟姉妹がおられる。
主はこれらの兄弟姉妹一人ひとりも覚え 愛し尋ねておられる。

私たちも主にならい
最近 礼拝を休んでいる兄弟姉妹を覚え
声を掛け 電話をかけ 訪問して何とか
ひとりひとり 接触し 共に祈ろう。
隣人を自分のように愛するとは そのことであり
人が友のために命を捨てる
これよりも 大きな愛はないと 主は言われる
愛は犠牲であり 時間と労苦を伴うのである。
愛が冷える終末時代だからこそ
主は 私たちに互いに愛し合いなさいと 語っておられる。
見えない兄弟姉妹の方々に
愛の声をかけ 手を差し伸べよう。

*信仰短言より*
 

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