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平和とは。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2019年 2月18日(月)12時06分43秒
返信・引用
  『平和とは何でしょう。』

テロリストの父親を持った、

平和活動家「ザックエブラヒム」さんの言葉です。

彼は、父親がテロリストでしたので、

アメリカで大変な差別を受けました。

その父親とは、全く違った生き方を選択し、

今、平和活動かとして、講演されています。

彼が言うには、

『平和とは戦争のない世界のことではありません』

☆『平和とは、正義のある世界のことです』☆と言われました。

だから、

正義が失われた時、その正義を取り戻す戦いも致します。?

人を宗教で判断するという差別を持たずに受け入れること、

自分と異なる世界を受け入れること、

互いに理解しあうこと、

基本的に、これらを守ることが、平和を作るということになります。

と、このように語って有りました。

-------------------------------------------------------------

日本においての平和とは、
戦争を決してしないこと、
また、戦いを一切 否定いたしますよね、
ところが、
世界では、平和を乱すような時、あえて戦ったりするのです。
正義が失われようとするとき、立ち上がるのです。
分かる人には、分かる
わからない人には、分からない ことだと思います。
人の歴史は 戦いの歴史でもあり、
戦いのなかった時代は存在いたしません。
そして
創造と破壊の歴史でもあります。
この中で、私達は、生きております。
正義を正義として、守らなければ、平和はありません。
平和をひたすら待ち望む人がいますが、
平和は待っても、向こうからくるものではありません。
平和とは、つくっていくものです。
それが この世のルールです。
残虐行為や殺戮されるのををみて、なにも感じないなら、
とうてい平和など来るはずもありません。
正義が、踏みにじられるとき、立ち上がる姿勢を持つことこそ、
平和を作ることになるのです。
なぜ、外国のクリスチャンが立ち上がるのかと言えば、その為です。
日本のクリスチャンには、
それが奇異に映ることもありますね。
でも、私的には、
外国のクリスチャンの行動の方が、なぜか正しく感じます。
 
 

信仰の考察

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2019年 2月18日(月)09時51分0秒
返信・引用
  『信仰の考察。』

人間というものは、
現在 心地よい 恵まれた 生き方をしている時
過去にどんな苦労があったとしても
そんな過去があるから、今の自分があるなどと、
肯定的に、考えられるものである。
しかし
現在、不幸にある時、試練を受けている時、
逆に 昔はよかったなどと 言いはじめる困った生き物である。
要は、
幸、不幸を
今現在、己が受容できるか、できないかにあるような気がする。
幸せの中にある時、不幸の時、
いづれにしても、
好意的に捉えられるか、とらえられないかが、
その人の 精神状態を 良くも悪くもするものだ。
願わくば、
どんなことがあろうとも、
全てのことを肯定的に受け取れるようにすれば、
人間的な思いによる悩みというものは、
全てとは言わないまでも、ほぼ皆無となる。
すなわち、
いつ いかなることがあったとしても、
精神的に 平安な心でいられるということとなる。
それを 扶助するのが、信仰ではなかろうか。
人は、聖書の御言葉で、
励まされ 救われることが多いのも、
そのためと思う。
また、
信仰がなかった頃なら、
立ち向かうことすらできなかった諸問題にも
立ち向かう力を与えてくれるのも、
聖書の 御言葉の力だと思う。
試練すらも、
自分にとっての益と考えられるようにしてくれるのも信仰の力だと思う。
私は、全能の神の働きを無視しているのではない、
神は、私たちの知らないところで、働いてくださっている。
そのことを 踏まえたうえで、
人間的考察を行っているのである。
世の荒波に立ち向かうことは、至難の業である、
その中で、
精神的に、追い込まれることが多々あるが、
己を、それに打ち勝つレベルまでに
引き上げてくれたり、
その支えとなってくれるのが、
信仰ではなかろうか。
ふと、そのようなことを考えた
今日の朝である。






 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2019年 1月27日(日)17時10分45秒
返信・引用
  「するとたちまち、主の使いが彼を打った。神に栄光を帰することをしなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えてしまった。」

         聖書 使徒 12:23


ヘロデ王が民衆の喝采と賞賛の声に酔っているとき、神様から打たれました。自分の手の業を誇り、自分自身を神のような者と自負した結果です。神様に栄光を帰すること、神様に感謝し、神様の前に自分を低くすることをしなければ、魂は命を失い、喜びも平安もなくなります。たとえ肉体は生きていようとも。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2019年 1月26日(土)23時00分16秒
返信・引用
  「神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。」

         聖書 コロサイ1:13


神さまが与えて下さる救いとは、まさにこの事です。事情・境遇が良くなること、様々な生活上の問題が解決することではありません。もちろん、それらも神さまは備えて下さいますが、それ以上に、闇の力、罪へ誘う力から、イエス様の支配に入れられることです。今日も、主はあなたを導き、守り、支え、顧みて下さいます。主のご支配に委ねましょう。
 

頂点の厳しさ

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2019年 1月16日(水)21時34分59秒
返信・引用
  『頂点の厳しさ。』

相撲の稀勢の里の引退、残念でしたね。
そこで思ったこと、
横綱には、降格というのはないから、
横綱らしからぬ相撲しかできなくなると、引退するとかないんだよね。
それ以外の地位には、降格するという手もあるのにね
それから、
相撲道では、怪我をしても精神力で土俵に上がり
その一番をとることを良しとしていますが、
それも怪我の治療をしっかりできないことと結びついているのかもね。
『よくやった』の一言は来ますが
確実に相撲人生を短くさせているよね。
ただ、どんなことにも言えますが、
上には上の厳しさがあるよね、
周りからは、ちやほやされるけど、結果がすべてだよね。
これは厳しいよね。
だから、横綱なんだよと言えば、終わりだけどね。
人は、何の分野においても、頂点を目指すが、
その分野において、目覚ましい実績がないと、
その地位も危なくなるし、信頼もしてもらえないのは、
世の常かな。
だから、よく言えば、たくましくもなれるんだよね。
ここには、
イエス様の言う世界とは、異次元のものがあるよね
自分の我力に信頼を置いて、勝ち進むしかないからね。
結果のみでその人は、判断されてしまうからね。

私達、キリスト者は
神の前では、いかなるものも公平だという観点を持っているが、
ここ世にあっての勝負の世界でも、仕事でも、
求められるのは、効率性と、その結果の善し悪しだよね、
ふと そんなことを考えると、
信仰の世界も、もっと厳しくあっていいのではなかろうかと思いますが、
そこにつかれた人たちが、
心の平安を求めてくるものが信仰なんだよね。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2019年 1月11日(金)19時14分11秒
返信・引用
  「イエスは彼に言われた、『もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる』。」

         聖書 マルコ9:23


日本人の私たちにはどこかに謙譲の美徳が潜んでいて、信仰の足を引っ張ってしまいます。あからさまに気持を表現できないで、回りくどい言い方になります。神様に求める時、そのような気遣いは無用です。できる、できないに囚われず、率直に、飾らず、神様に心をぶつけましょう。信ずる以外に救われる道はないのですから。信仰は追い詰められ逃げ場のない時、真価が明らかになります。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2019年 1月 7日(月)19時48分55秒
返信・引用 編集済
  「主は言われる、背信の子らよ、帰れ。わたしはあなたがたの夫だからである。」

            聖書 エレミヤ3:14a


人と神様との関係は愛に基づく婚姻関係のようなものです。ところが、人は愛してくださる花婿、主から離れて、他のものを慕い、罪を犯したのです。それでもなお神様は背いた妻である私たちを愛するがゆえに「帰れ」と切なる思いを抱いて待っておられます。この方から離れて私たちの幸せはないからです。それほどに深い愛を注いでくださっています。主の心と思いを知って主のもとに帰りましょう。
 

新年にあたり

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2019年 1月 1日(火)17時09分8秒
返信・引用
  『新年あけましておめでとうございます。』

旧年中は大変お世話になりました。
今年もまたよろしくお願いいたします。m(__)m
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年12月31日(月)17時52分26秒
返信・引用
  「わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。」

          聖書 ピリピ4:19


一年を振り返ると、飢えることもなく、有り余ることもなく、全てが満たされたことを深く感じます。神様は私達の必要を全てご存知です。祈りと願いにこたえて、日々養いはぐくんでくださいました。得たものを「与えられた」と感謝するとき、喜ぶことが出来ます。新しい年も全てを満たしてくださる主に信頼して、思い煩うことなく喜び感謝して生きようではありませんか。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年12月11日(火)20時02分13秒
返信・引用
  「イエスはこれを聞いて言われた、『丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である』。」

          聖書 マタイ9:12


病院は病気の人が来ます。健康な人には用事のないところです。信仰もそれと同様で、必要でない人には無用の長物、邪魔ものに過ぎません。「豚に真珠、猫に小判」ともいわれますが、確かに、求める人には貴重な物であっても、価値が分からず、必要でなければ迷惑です。イエス様の救いもあなたが救われたいと渇いて求めるとき、命となりますが、そうでなければ無益です。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年12月10日(月)19時20分24秒
返信・引用
  「わたしは声を出して主に呼ばわり、声を出して主に願い求めます。わたしはみ前にわが嘆きを注ぎ出し、み前にわが悩みをあらわします。」

          聖書 詩篇142:1-2


ダビデがサウル王の手を逃れてほら穴に潜んでいるときの詩篇といわれています。まるで幼子が火のついたように泣き叫んでいる姿が浮んできます。ダビデはただ神様だけに頼るほかなかったのです。また、彼は神様に対して率直に、包み隠さず、心のうちを注ぎ出します。私たちもダビデにならって遠慮なく、幼子になりきって神様に求めようではありませんか。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年12月 9日(日)18時49分10秒
返信・引用
  「また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである。」

          聖書 マタイ5:15



この言葉の前に、「あなたがたは、世の光である」とあります。神様は心に光であるイエス様を置いて、私たち自身を光としてくださいました。燭台は高く掲げて、少しでも広く、大きく照らして、闇を消し去るためです。光は物事の実相を明らかにし、明かりと陰を明示します。イエス様の光を高く掲げて、心の隅々を照らしてもらいしょう。
 

死者からの叫び

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年12月 7日(金)14時39分37秒
返信・引用
  『死者からの叫び』

父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が5人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることがないように、よく言い聞かせてください。

        聖書 ルカ16:27 28

ここに、この世の成功に酔いしれて、神を信ぜず死んでいった一人の金持ちの死後の叫びが記されている。彼は生前、自分の兄弟たちの魂の事など考えたこともなかったろう。彼は毎日この世の事に多忙を極め、作の出来高、羊の相場、兄弟たちの金繰りのこと、族長会や、長老会、村のもめごと、政治献金、税金対策、種種なお付き合いの宴会めぐり、毎日体がいくつあっても足りないほどで、とても、死後の世界だ、永遠の命だなどと悠長なことは、言ってられないと思ったであろう。どう考えて、どう生きよと、確かに来るのは死の現実、ついに彼にもその日が来た。葬儀も墓も最高だったが、辿り着いたのは火炎の地獄。そこで彼が第一に気がついたのは自分の生き方の間違いだったが、それは到底どうにもならない。そこで彼は第二の事に思いをはせる。それはまだ生存している彼の5人の兄弟たちの事であった。何としても、「彼らまでこんな苦しみの場所に来ることがないように、よく言い聞かせてください。」ということ。これこそ 我々の死んだ死んだ先祖の叫びである。先祖たちが自分の子孫に強く願っているのは、死者の霊への空しい供養や祭りではなく、地上に残る子孫たちが一日も早く福音を知り、永遠の命の恵みにつながることである。イエスを信じることこそ死者の霊への最大の慰め。先祖の霊は今日もそれを願って叫んでいるのだ。







 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年11月30日(金)09時51分35秒
返信・引用
  「イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた、『恐れることはない。ただ信じなさい』。」

       聖書 マルコ5:36


会堂司の娘が死にかけていたとき、イエス様に来て祈ってほしいと頼みました。しかし、すでに亡くなったと知らせてきました。そのとき、イエス様は「聞き流して」、信じなさいと勧めました。私たちにはあまりに多くの情報が耳に入り、信仰が持てなくなっています。聞き流すこと、これは信じるために大切なことです。イエス様ですら、そのようになさるのですから、神様の声にのみ耳を傾けましょう。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年11月30日(金)09時43分27秒
返信・引用
  「主が命じられたのでなければ、だれが命じて、その事の成ったことがあるか。」

           聖書 哀歌3:37


どんなことでも、神様のご計画、摂理によって現れ、堅く立ち、消えていきます。見えるところ、人の知恵や力、努力の結果のように思われますが、神様のゆるしがなければ髪の毛一本抜けません。人は神様を忘れて、自分がなんでも出来ると思っているので、「私の責任です」と偉そうなことを言います。自分の身ひとつ、持て余しているのが現実ですから、例外なく全てが神様の手にあることを認めて、へりくだりましょう。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年11月28日(水)10時09分27秒
返信・引用
  「ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。これがわたしの福音である。」

         聖書 第二テモテ2:8



「イエス・キリストを、いつも思う」ことが福音だと言われています。それはどんなとき、どんなことにでも、イエス様だったらどうするだろうかと問いかけることです。心のなかでイエス様と対話するのです。そうすると、気づかないうちに、自分の行動、言葉遣いが変化してきます。思いがけないときに、忘れていたみことばを思い出させて、知恵や力を与えられます。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年11月16日(金)09時13分51秒
返信・引用
  「われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください。」

          聖書 詩篇90:12
この地上での生涯は永遠に続くものではありません。必ず、終わる時がきます。ただ、それがいつであるか、だれも知りません。そのため、いつまでも続くものと錯覚しています。始まりと終りを知って、今がどのような時であるかを自覚することが大切です。ある人の歌に、「今は人生の何章目だろうか」という言葉がありましたが、あなたはそれを知っていますか。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年11月 1日(木)19時18分50秒
返信・引用
  「わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました。万軍の神、主よ、わたしは、あなたの名をもってとなえられている者です。」

               聖書 エレミヤ15:16


言葉を食べるとは奇妙な言い方ですが、本意は神様の言葉に自分をぴったりと合わせることです。聞いてやり過ごすのではなく、食物の如く、咀嚼し、飲み込み、自分の一部にするのです。体に入ったものは姿かたちがなくなってもエネルギーとなり、行動を生み出します。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年11月 1日(木)18時59分20秒
返信・引用
  「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いてくださることとを、必ず信じるはずだからである。」

              聖書 ヘブル11:6


神様に喜ばれる人となりたいと願って、生活を立て直し、行いを慎み、努力しようとします。しかし、人がどんなに努力しても聖人君子になることは出来ません。また、神様はそのようなことを喜ばれるのではありません。みことばのように、神様を信じていっさいをゆだねきって生きること、これこそ神様に喜ばれることです。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年10月24日(水)18時52分32秒
返信・引用
  「されど主よ、あなたはわれわれの父です。われわれは粘土であって、あなたは陶器師です。われわれはみな、み手のわざです。」

            聖書 イザヤ64:8


神様とわたしたちの関係は創造者と被造物です。ですから、私達に出来ないことがあり、欠けたものであることは当然です。人がなんでもできると思い上がることなく、造られたものに徹して、神様に信頼しましょう。しかも、私達は神様の作品であって、自信作ですから、神様の目から見ると欠けたものではありません。大切に養ってくださいます。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年10月22日(月)20時44分32秒
返信・引用
  「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」

          聖書 詩篇119:71


人生を生きるにあたって、悲しみや苦しみはないほうがいいと願います。しかし、生きる限りのがれることはできません。では、試練・悩みは何のためでしょうか。いろんな説明が出来るでしょうが、聖書が語っているのは、神様と出会い、神様を知り、信じて、神様と共に在る平安と喜び、望みと力を体験するためです。苦難は決してマイナスではなく、私たちを真の命に結びつける大いなる恵みです。
 

復活の信仰

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年10月15日(月)17時12分48秒
返信・引用
  【信仰短言】

「復活の信仰」  沖縄県 那覇バプテスト教会

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて、感謝しなさい。これがキリスト.イエスにあって神があなた方に望んでおられることです。」

         第一テサロニケ 5章16-18

聖書の中で最も有名な御言葉が上記の喜び、祈り、感謝、のお言葉でしょう。私たち自身も暗唱し、口づさむことの多い御言葉です。この御言葉が記されているテサロニケの教会では復活信仰について懐疑的な意見が強くあったようです。それを受けたパウロ先生はイエス様の復活についての詳しく述べ、復活こそが私達の信仰の土台であり、その信仰を大切にすることを勧められました。
5章はの締めくくりの部分となり、より具体的な信仰生活の勧めが列挙されています。
16-18節の「喜び、祈り、感謝、」はその一部なのです。よみがえりの信仰に立つ私達は、指導者を主にあって認めること、平和を保つこと、相手に相応しく言葉かけをすること、互いに善を行うこと、さらにイエス様にあって喜び、祈り、感謝、すること、また御霊をけさないこと、預言を重んじること、等をその信仰のゆえに守り行うのです。大切なことは繰り返されている「イエス様にあって」です。自助努力や、経験ではなく、これらを成し遂げることができるのは復活のイエス様にあって であることを覚えましょう。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年10月 8日(月)20時39分8秒
返信・引用
  「見よ、わたしは主である、すべて命ある者の神である。わたしにできない事があろうか。」

          聖書 エレミヤ32:27


「主」とは中心、根源などの意味を含むことばです。いうならば、全ての始まり、中心は神様であるという宣言です。人は自分が人生の「主」だと思っていますが、そうではなく、神様があなたの人生の「主」であり、「神」であるというのです。しかも「できない事」がない方です。この神様があなたを生かし、持ち運び、人生を終わらせるのです。神様の大能のみ手の中で、限りない愛によって生かされている幸いを感謝しましょう。
 

毎日の炉聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年10月 3日(水)12時44分3秒
返信・引用
  「愛する者たちよ。もし心に責められるようなことがなければ、わたしたちは神に対して確信を持つことができる。」

          聖書 Ⅰヨハネ3:21


日々の生活を送るうえで、もっとも幸いなことは心に平安があり、穏やかであることです。常に心が騒ぎ、苛立ち、失望の闇に閉ざされるなら、外的条件が恵まれていようと、その生活は悲惨です。そうならないように、しっかりと心を動かないものにしておきたい。ことに、心に責めを感じるなら、誤魔化さないで素直に神様の許しをいただいて、躓きの石を取り除けましょう。
 

天にも地にも。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 9月24日(月)19時53分5秒
返信・引用
  『キリスト者は 天にも、地にも、目を向けることだよね。』

私達キリスト者は天を仰いで、天の事に思いを馳せます。
それが信仰、信じて仰ぎ見ることです、
そして私達の国籍は天にあります。
しかしながら、
地上にいる間は、
私達は、訓練を受けている期間でもあります。
そこには、地上の権威もありますし、
キリスト者は地上の権威にも従わなければなりません。
私の国籍は天ですから、
地上の事など全く関心はありませんでは、通用しませんし、なら天の御国においても、
地上の訓練を放棄してきたのですから、
受ける祝福もやはりそれに見合うだけのものです。
しっかりと、地上の権威に従い、
訓練も終え凱旋した者には、その祝福も多いと思うのです。だから、
私達キリスト者も地上の事に疎くなってはいけませんよね。そう思います。
 

ある本より。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 9月 3日(月)13時57分50秒
返信・引用
  ーある本よりー

人のすることには非難がつきものです。

迷惑をかけてしまうような悪行でなく

善行であるかぎり

自分が信じたことをやるべきです。

天才アインシュタインは、

「バカを試みる者だけが、不可能を可能にできる」

と語っています。

正しいことでも周りの無理解から

バカを試みる者と非難されることもあるでしょう。

周囲の非難ばかりを気にしてると

何も出来ずに人生が終わってしまいます。

何事も最初から判断を誤らず成功することは

誰でも難しいことです。

失敗は成功の礎ですから、

周りの非難を恐れず、

強い決定心を持ち、

人生を有意義に過ごしたいものです。

信念を貫き通すには、

不安や恐怖がつきまとってきますので、

いつも冷静な判断ができるように

瞑想で心を冷静に保つことが

とても大切になります。

.

「沈黙している者も非難され、

多く語る者も非難され、

すこしく語る者も非難される。

世に非難されない者はいない。」






 

お盆に想ったこと。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 8月26日(日)10時51分42秒
返信・引用
  “Be Not Conformed To This World”.

『この世と調子を合わせてはいけません』と言いますが。


お盆の時、キリスト者は特に気を使いますよね。
心の中で、他の信仰とのせめぎあいが発生するからです。
厳格なキリスト者の方たちは、
その事柄に、一切 関与するなと言います。
クリスチャン家庭や、クリスチャン家族なら、
それは、たやすい事でしょう。当然でしょう。
しかし、
私を含め、
家族の中で、キリスト者は自分だけという場合があります。
この人たちは、
仏教やその他の先祖伝来の信仰を持っていることがあります。
そこで、祖先や、家族の信仰を、
自分がキリスト者として、忠実にあろうとして、
それらから遠ざかろうとしますよね。
私もそうでした、
しかし、
その時思いましたね、
自分がキリスト教信仰を持ったからと言って、
家族の信仰を無視し、否定し、
仏壇は廃棄せよ、
そんな家族とのかかわりは、絶てと言えるでしょうか?
聖書に書かれていることは、
「この世と調子を合わせるな」
「私のためにあなた方は憎まれる」
など、ありますが、
では、キリスト教界に、お尋ねしますが、
そもそも キリスト教界が聖書に忠実ですか?
世と、調子を合わせ、変化をしていることがありませんか?
それを言うのであれば、
それらも、一切 認めてはいけないということになります。
私が言うのは、
偶像礼拝をしない、神は一つ、これは、当然のことです。
キリスト信仰の基軸です。
ただね、それは、己が選択したものですから、
己の時代が到来した時に、
家族とは別に、実行すればいいのです。
親が先祖伝来の虚しい神々を信じていたとしても、
それは、尊重してあげるべきことなのです。
その親が、キリスト教に変わりたいと願えば、
その時、そうしてあげればいいだけの事ですし、
そうするためにも、虚しい神々の中で、
素晴らしい証をしていけばいいのですよね。
虚しい信仰の中にあっても、
自己の心の中に、
イエス.キリストが、脈々としっかりとあるのなら、
赦される範囲で、
このお盆とか、葬儀に かかわればいいのです。
それこそが、キリスト教の伝道にもつながります。
このように、否定することばかりではなく、
肯定できるファクターも存在するのです。
要は、自分次第というわけです。
そこにかかわって、信仰を失う程度の人なら、
関わりなさんなということです。
ちなみに、
私が元いました ?ものみの塔?というところは、絶対にかかわらないことを教団の命令として発していました。
その結果、
私達が知る エホバ信徒の家族が、その信徒を連れ戻しに来て、大変なことになったことが何回もあります。
教団も、信用を失墜したのです。
どうですか、
キリスト教正統派も、このようになりたいのでしょうかね。
私達の信仰は、私達以後の世代に、かかっています、
家族がキリスト教への理解を示すためにも、
その信仰を尊重するという方向は、考えられませんか?
異論は数々あるかもしれませんが、
私個人は、そう思います。

参考までに

私達の信ずる唯一の全知全能なる神は、創造主は
他の虚しい神々と、その信徒の存在を許してあります
イスラム教、仏教、その他も。。。。。
そして、その全知全能の神は、
全てのその上に位置する神なのです。
私達の唯一なる神は、そのように、大きくて、寛大なのです。






 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 8月20日(月)10時52分33秒
返信・引用
  与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから。」

               聖書 ルカ6:38


人は握ったものは手放さないように、持っているものは減らさないようにしようと保守的になります。それでは信仰に立つことができません。イエス様は私たちに与えなさい、空にしなさいと勧めます。そうすれば満たされ、溢れるようになるからです。神様は必ず報いてくださいます。
 

当たっているかも。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 8月13日(月)14時21分0秒
返信・引用
  『ある教派に見る特徴的な性格。』

私は、「ある教派に見る特徴的な性格」の事を書いてある本を読みました。

どことは言いませんが、こんなことを書いてありました。

権威への服従を嫌い、

個人の良心自由を大事にし、

他人の信仰に干渉しない、

自分を相対的に眺め、少数派の立場になって考える、

信仰者としては、あくまでイエスを師とする道を歩むが、

他宗教の信者には、そこに救いの道のあることを認め、

共に神の愛のもとに生きる者として、尊重する。

もちろん、不可知論者や無神論者への偏見もない。

はっきり言って、

その教派は私が好む教派ではありませんが、

なんか 近いものを感じて、ぞっとしています。

この例の中で、

いくつか そうかいなというものもありますが、

当たらずしも遠からじです。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 7月28日(土)22時23分55秒
返信・引用
  しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。」

           聖書 ヘブル4:2b


神様の言葉は聞くだけで終わる限り、それはただの言葉にすぎません。大切なのは信じて心に受け入れ従うとき、神様の力が具体化されます。信仰に立ち生活の細部にわたって御言を実践するのです。それをしなかったために、神の民は約束の地カナンに入ることができませんでした。神様の言葉を知りながら、見ること、聞くことによって左右され信仰に立てなかったからです。
 

道の光

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 7月24日(火)21時00分50秒
返信・引用
  『人にはできないことが、神にはできるのです。』

       聖書 ルカの福音書 18:27

信仰とは常に神を計算に入れてものを考えることを言います。
信仰のない人はいつでも自分を基礎にしてものを考え、
人間の能力で事をはかります。
できるとか、できないとか言うときは、
人間にできるかできないかを言っているのです。
そして
それ以上の事を考えようとは致しません。
しかし
イエス様は人間の力の及ばない所に働く力があると仰せられました。
それは 神の力であります。
「人にはできないことも、神にはできる」というのが
本日の聖句の意味です。
どんなことの中にも、失望しないで神を見上げて立ち上がりましょう。
人間にはできなくても 神には不可能はないのです。

●神にあって大事を計画せよ。
●あなた方の言葉が、いつも親切で、塩味のきいたものであるようにしな さい。(コロサイ 4:6)

《お祈り》

天の父なる神様
ともすれば 心が弱くなりやすい私共に、
もう一度、神様を計算の中に入れよ、と教えてくださいまして
感謝いたします。
信じて進みます。

聖名によって お祈りいたします。

アーメン

ーみちの光ー
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 7月 9日(月)10時56分35秒
返信・引用
  「平穏であって、ひとかたまりのかわいたパンのあるのは、争いがあって、食物の豊かな家にまさる。」

          聖書 箴言17:1


『衣食足りて礼節を知る』と昔は言われたものです。豊かになれば、人はみな穏やかになり、平和になると思われましたが、今やあり余るほどのものに囲まれながら、争い、不平、無気力がはびこっています。全てのものの根源であり、供給者である神様を忘れた結果です。小さなことから、大きなことに至るまで、全てが神様の恵みによることを認めて、喜びに溢れて感謝する者となるならば、「かわいたパン」も山海の珍味となるでしょう。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 6月28日(木)20時27分31秒
返信・引用
  「わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。」

          聖書 申命記30:19bc


神様の救のみわざはイエス様の十字架によって完成しています。それに付け加えるものはなにもありません。ただ選択と決断が私たちに委ねられています。事の大小を問わず、すべてのことには「命と死」「祝福とのろい」のいずれかを選び、決断することです。神様が私たちを滅ぼされるのではなく、自分が死とのろいを選ぶからです。どうぞ命を選んでください。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 6月26日(火)11時11分40秒
返信・引用
  「あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している。」

          聖書 マルコ7:8


世の人の言葉や先祖伝来の言い伝えなどはたやすく信じ込みます。ところが、神様の言葉、聖書の言葉をなかなか信じようとしません。神様の言葉(いましめ)を素直に信じるにはこの世の常識、言い伝え、習慣などを離れなければ信じられないからです。神様の言葉は人の知識や理解力を超えたものです。私達は固定観念に縛られ、そのため狭く限られた選択肢しかありませんが、神様の言葉を信じると無限の可能性が出てきます。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 6月21日(木)21時57分46秒
返信・引用
  「さばきづかさが世を治めているころ、国に飢きんがあったので、ひとりの人がその妻とふたりの男の子を連れてユダのベツレヘムを去り、モアブの地へ行ってそこに滞在した。」

               聖書 ルツ記 1:1


エリメレク一家は飢きんによって、「ユダのベツレヘム」を去りました。これが不幸の始まりです。彼らは神様の祝福の地を離れたのです。確かに飢きんは苦しい事でしょうが、そこに留まる人もいました。モアブの地で食糧は得ましたが多くのものを失いました。まさに信仰の試練のときです。あなたはどの道を選びますか。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 6月19日(火)20時23分51秒
返信・引用
  「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。」

               聖書 マタイ5・46


そりの合わない相手がいても、無視したりつっけんどんに遇したりせず、穏やかに対することができますように。
 

無関心

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 6月18日(月)17時08分26秒
返信・引用
  『人の各々が 他に何も関心を示さない時。』

良く、あなたはあなた、私は私と、
一見 合理的に見える思考があるよね。
では、
己が 己が、とそういう思考を持ったとしよう。
今さえよければいい、人の事など気にする必要はない、
人の事などかまう時間があるのなら、
自分をもっと磨けよ、もしくは、自分が楽しければいいと。聖書には、
他の人とかかわりを持つ大切さを、とうとうと教えている。
なぜなら、
そうすることが、良きサマリア人でもわかるように、
強盗に襲われた、異邦人にすら、関心を持って、
傷の手当てもしてあげられるのだ。
ここにおいて、
人とのかかわりの大切さと、
無関心でいてはいけないという
神の教えが結実するのである。
今、自分の信仰を維持するために、
他の教会員に、無関心な人たちがいる、
本人は それでよかろうが、
他の信徒から見れば、
恐ろしく、冷たい信徒と見えることだろう。
また、
教会に くしくも 初めて来訪した方たちには
どうそれが映るのであろうかと危惧する。
当世、
自己完結する世界かもしれないが、
教会は、人の心をある意味表現する場だ、
イエス様も言った、
行って同じようにしなさいと、
私共は、決して、無関心であってはならないのだ。
 

アーサーホーランド牧師のメッセージ

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 6月11日(月)22時01分23秒
返信・引用
  アーサーホーランド牧師の記事をシェアーさせていただきました。
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『HEAVEN AND EARTH(天と地)』

『天と地がなければ
 人は存在しない…』

教会は建物ではない…
この宇宙、また自然界こそ、
教会なのである。

「天はわたしの王座…
 地はわたしの足台…」
とTHE BIBLEにある。

大空に夜空…
太陽の日差しに月や輝く星々…
また、ゆったりと浮かぶ雲たちは、
大いなる方の家の天井であり、
草原や砂漠…、大海原に大地は、
大いなる方の家の床なのだ…

鳥のさえずりに虫の音…
また、川のせせらぎに
岸辺に打ち寄せる波の音…
そして、風が
森や林を駆(か)け巡(めぐ)り、
木の葉たちが奏でる音色は、
大いなる方の家の賛美歌である。

「あなたはわたしのために、
 どの様な家を
 建てようとしているのか…
 天地万物はみな、
 私の御手(みて)が
 造ったではないか…」
と謳っている。

世の宗教の枠(わく)から
一歩踏み出すことである。
その時、あなたは
大いなる方の家の中に
すでにいる自分に
気づけるのかもしれない。

今日という日が、
もうすでにあなたのためにある
大いなる方の家の中にいる自分に
気づける日となります様に…

『建物の中よりも
 自然の中にこそ本質にふれられる』

アーサー・ホーランド
 

神の家族

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 6月11日(月)21時09分43秒
返信・引用
  『神の家族』


私達、キリスト者は神の家族とも言いますよね。
家族とは、
悪いことをしたりした時には、叱ったり致します。
また、
良い事をしたときは褒めますよね。
そのように、神の家族という以上、
その一人一人は、主にあっての家族なんです。
だから、
表面だけを見て褒めることばかりをしてはならないのです。
時には、
叱咤激励も、苦々しいことも言うのです。
その対象が、たとえ 宗教指導者であろうともね。
それが本当の家族というものなのですよね。
指摘を裁かれているとしかとらえられないようなら、
それは、家族などではありません。
心配するから、指摘するのです、
子供が、わがままを言っている状態とか、
親の意見を聞かない時は、
家族であれば、注意するでしょう。
そのように考えることが大切です。
家族ならばこそ、注意するのです。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 6月10日(日)23時29分16秒
返信・引用
  「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。」

           聖書 マタイ9:12


確かに、医者を必要とするのは病気の人です。自分が病んでいることを自覚し、治りたいと願う人が医者のところへ行きます。その自覚がない人は、いくら病んでいても医者を求めません。同様に、自分の罪を知り、弱さを認め、神様の救いを願わなければ、イエス様を求めません。自分を省みて、不安や恐れ、怒りやつぶやきなどに満たされているなら、平安と望み、愛と喜びを求めて、神様に帰ろうではありませんか。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 6月10日(日)21時27分33秒
返信・引用
  「あなたがたは、なにゆえ神のようにわたしを責め、わたしの肉をもって満足しないのか。」

             聖書 ヨブ19:22


不条理な苦しみに遭ったヨブのもとに、友人たちが慰め、励ましにきます。しかし、彼らの言葉はヨブにとって苦痛を増幅させるものにすぎません。彼らは自分を神のごときものとして、その義によってヨブを責め立てる結果になりました。私たちも彼らと同輩です。神様のように責める。これこそ人の心にある抜きがたい衝動です。また、このゆえに人間関係を不毛にし、この世を荒野にしているのです。
 

キリスト教界の二面性

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 6月 8日(金)22時18分29秒
返信・引用
  『キリスト教界の二面性。』

賛美において、

●神様に捧げる賛美だから、失礼のないように、完成度を挙げた賛美を 捧げることが大切。

●神様に捧げる賛美だから、上手下手よりも 捧げようとする心が なにより大切。

祈りにおいても、

●神様に捧げる祈りだからこそ、きちんとしなければならない。

●神様に捧げる祈りは、上手でなくとも良い、素直に思ったままに、神様に直接語ることが何より大切。

これは、一例でして、まだまだ他もありますね。

要は、

神様に対して、あくまで失礼のなきように、配慮する方と、神様の御前に 素直に、語り、ありのままを表現する方との二つがありますね。

牧師自体も、そのように指導する方たちが おられますね。

正直 一体どっちやねんと思います。

私は、もちろん、形式ばった、マニュアル的なものは嫌いますから、
当然、神様と、自然体で、向き合える方を選択します。

人それぞれですから、なんとも言えませんけどね。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 6月 8日(金)22時12分50秒
返信・引用
  「イエスは言われた、『手をすきにかけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくないものである』。」

            聖書 ルカ9:62


「すき」は田畑を耕す道具で、鋭い刃を備えた物です。この作業中にうかつに気を抜くと、命を失う危険があります。同様に、イエス様の声を聞いて従うのはまさに命がけでなすべきことです。主のみ声を聞きつつ、他のことに心奪われるなら、命を失う危険が大いにあります。救の完成と言う大事業に向かって踏み出した私たちは、イエス様の声にのみ全神経を集中させ、みことばに従おうではありませんか。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 6月 6日(水)19時59分1秒
返信・引用
  「人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのでなく、キリストの僕として心から神の御旨を行い、人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい。」

               聖書 エペソ6:6-7



イエス様を信じて新しい命に生きる生活は、神様のしもべとなって生きることです。この世にあって果たすべき役割を家庭や職場、学校や地域社会などでそれぞれ持っていますが、そのような活動を通して、神様に仕えるのが私たちの使命です。人間関係をうまくやることより、神様との関係に重点をおくのがイエス様を信じる信仰に生きる生き方です。
 

見返りを求めていた自分

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 6月 4日(月)11時19分26秒
返信・引用
  『見返りを求めている自分に反省。』
今朝 ある交通量の多いところで、他の小道から、合流しそうな車がいたので、私は、車の流れに、空間を意識的に作って、入らしてあげようとした。当然、相手は、合流してくる、そして お礼のハザードか、ペコリと時宜をするかと思いきや、知らぬ 存ぜぬ で、当然のような顔をして、それも、荒い運転で、走り去っていった。その後、私は、こういう性格ですから、腹が立った。でも、 よく考えると、相手に見返りを求めて、善意の行動をしたのである、その後、相手に見返りを求めるから、腹が立つのであって、見返りを求めないなら、何でもないことなので、そのようにしようと思った。前から、わかっていたことだが、いざとなると ついつい その考えになります。反省。
 

十字架

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 6月 1日(金)20時39分22秒
返信・引用
  十字架


ある教会は、信徒が教会員ともめて、躓きそうになると、人を見ないで、ただ主のみを見上げましょうと。また、ある教会は、主のみを見上げて教会生活を送っていると、十字架を見てください、縦に神様とつながり、横に聖徒の交わりがありますよね、このように、主だけでなく、教会員との交わりも大切にしてくださいねと、なにか、一体どっちなんだと、言わんばかりのことを語りますが、要はバランスなのでしょうね。ただ、これも万全ではなく、主のみを見上げると、恐ろしく無関心な信仰となります。また、聖徒の交わりを重点に置くと、人間関係で、重篤な精神状態となります。だからと言って、バランスよくこれを保てるかといえば、至難の業です。だから、教会生活は、ある面、難しくもありますよね。でも、中には、教会生活が楽しいと言われる方もあるのですから、うまく教会生活をされてある方もいるということですよね。教会の雰囲気にもよるのでしょうね。願わくば、雰囲気の良い教会であってほしいですよね。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 5月30日(水)21時29分23秒
返信・引用
  「もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない。」

          聖書 第一コリント8:2
「知識は人を高ぶらせ…」と聖書にありますが、誇るに足るだけの知識があれば、納得できます。しかし、案外、知ったかぶりの半可通ほど高慢になるものです。殊に神様については、どんな人でも知り尽くすことができません。謙遜とは知るべきものすら知らないことを自覚している人ではないでしょうか。謙遜になって、主を知ろうではありませんか。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 5月28日(月)15時18分20秒
返信・引用
  「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。」

               聖書 マタイ9:12


確かに、医者を必要とするのは病気の人です。自分が病んでいることを自覚し、治りたいと願う人が医者のところへ行きます。その自覚がない人は、いくら病んでいても医者を求めません。同様に、自分の罪を知り、弱さを認め、神様の救いを願わなければ、イエス様を求めません。自分を省みて、不安や恐れ、怒りやつぶやきなどに満たされているなら、平安と望み、愛と喜びを求めて、神様に帰ろうではありませんか。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 5月28日(月)10時15分32秒
返信・引用
  「すべてのことは、あなたがたの益であって、恵みがますます多くの人に増し加わるにつれ、感謝が満ちあふれて、神の栄光となるのである。」

        聖書 第二コリント4:15


「神様の栄光」を現すなどと言うと、大変なことだと思ってしまいます。何をすればいいのかと戸惑いますが、実はとても簡単なことです。みことばにあるように神様の恵みを感謝することです。しかも、そこそこの感謝ではなく溢れるばかりに感謝するとき、それが神様の栄光となるのです。あなたが神様を褒め称え、感謝讃美することを願っておられます。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 5月26日(土)09時51分20秒
返信・引用
  「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。」

         聖書 コロサイ3:16



信仰が形成されるには、キリストの言葉、聖書の言葉を聞くことから始まります。次に、聞くだけでなく、その言葉をいつも心に置いて生活することです。「宿らせる」とは、記憶する、暗記することばかりではありません。実生活の中の出来事に当てはめ、自分の考え方や心の動きをそれに添わせていくことです。その為には、いつも言葉に接して、味わい、信じ、従うほかありません。
 

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