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日本型のキリスト教へ

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 9月19日(火)10時56分16秒
返信・引用
  『模倣から、日本型のキリストへ。』(個人的見解)

キリスト教の教会が、日本に定着するように考える時、
やはり
日本文化に溶け込むこと、
受け入れられることに、
着目すべき時に来ているような気がいたします。
先ずは、
日本人に、受け入れられているものとして、仏教がありますが、
日本風建築と、畳の上の説法から、学ぶところも あります。
なにも、
韓国や、欧米の形式を模倣する必要は ないと思っています。
畳のことでは、
立ったり座ったりして、大変だという方もおられますが、
座ったままの礼拝を 行えばいいと思っています。
礼拝の現在の形式は、
外国からの、影響を受けています。
それに固守っする必要はないと思っています。
また、
聖書のを真理を曲げるようなことではないので、
許されると思います。
イスの代わりに、畳の上で、
牧師と、同じ目の高さで、同等の関係で 礼拝する。
講壇から メッセージをすることは、
信徒と牧師の 案に 地位の関係を表しているとも言えます、
「万人祭司主義」にそって、
同等の位置で、話す、接する、
これにより、牧師を 身近に感じられるはずです。
権威を 好む方たちもおられますが、
あえて、この方式がいいように感じます。
神様は、天におられますから、
なにも、失礼なことでは ありません。
聖書にあるように、
『霊と真』によって、礼拝すればいいだけのことです。
私は思う、
かのパウロは言った、
『異邦人に 伝道するときは、異邦人のようになりなさい』とね、
また、
*イエス様は、幕屋を取り払われた*
そのことで、
祭司職のみが近寄れた、祭壇に
私たちも、近づくことができるようになったと。
この事を 考えました。

そして
牧会する牧師も、
日本文化に精通した、『日本人牧師』を極力 採用することですよね。
偏見で言っているのではありません。
その事は、
日本型のキリスト教を目指す時、
大きなファクターともなるからです。

それから、
人によっては、若者が来なくなるという方もおられますが、
それも一理あります、
しかし
日本に根付くキリスト教を目指す時、
広範囲な年齢層に、支持されることが大切です。
人集めのために、
若者に受け入れられることだけに終始すると、
それは、何か違うような気がいたします。

他にもありますが、
ざっと言えばこのような感じです。
『日本の教会にくると、外国旅行をしているようです』と、
ある人がおっしゃいましたが、
その時、
はっとしたものです。
そこに 多くのことが語られていると思います。
『日本の教会に来ると、日本らしくて落ち着くわ』と言われたいものです。

敷居を下げて、プライドを下げて、
たくさんの人たちから、支持される
日本のキリスト教界でありたいですね、
そして、
日本の教会が、そのことに目覚めてほしいです。


 
 

人間関係の問題。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 9月11日(月)19時24分6秒
返信・引用 編集済
  『人間関係の問題は』

アドラーという方の本に最近傾倒している。

その中で、「嫌われる勇気を持とう」と言うのがあったが、
やたら、なるほどと共感したものだった。

ところで、人間関係で、問題があると、
その問題があった場所にかかわりたくないと思うのが、
普通の精神状態です。
しかし、
アドラーは、自ら人間関係のわずらわしさのある所でないと、
その人間関係の問題も、解決しないというのだ。

ふと思った、
人間は傷つける存在だが、
癒しも人間が、与えてくれるのだとね。

人間関係で問題があったのなら、
あえて、
問題のあった場所にかかわることで、
その問題も なくなるということだった。
なにか、納得できない感じは受けるが、
そうなんだと思うことにした。

それから、
イエス様がそんな時には、常にいてくださるから、
先ず、そこに安心感があるね。(*^。^*)
 

那覇バプテスト教会  主日第一礼拝

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 9月10日(日)15時15分47秒
返信・引用
  『那覇バプテスト教会 主日第一礼拝より』


[僕の祈り―御心を求めてー]


「こうして彼がまだ言い終わらないうちに、見よ、リベカが水瓶を肩に載せてでてくた。」

        創世記 24章15節


今日は、祈りについての特集のようなメッセージでした。
簡単に言うと、
祈る先に、
すでに主は答えを用意してくださる。というものでした。



信仰の父アブラハムは最大の試練と言うべき、
息子イサクを捧げなさいとの主の御命令を乗り越え、
円熟した信仰に達していました。
しかし、
どのような段階の信仰者であれ、
人生において
悩みや、問題がないということはあり得ないことです。
齢140になるアブラハムの唯一の悩みは、
息子イサクに相応しい連れ合いが与えられていなかったことです。
それは、
アブラハムに与えられた子孫の約束の実現ためにも不可欠であり、
その頃、
妻サラが死んだことによる寂しさもあり
急を要する願いになってしまいました。
アブラハムは、信頼する僕依頼し、
イサクの嫁を連れてくるように命じたのです。
異教の神々を信じているカナンの地ではなく
自身の故郷から、真の神を信じる女性をという命令です。
これは、膨大な時間を要する可能性もある仕事でした。
僕はナホルの町に着くと、、先ず祈りました。
その祈りは、
「今日私たちのために、どうか取り計らってください。」
という 率直な祈りでした。
水を求めたら、らくだにも与えた娘がその人であるかのように、と。
祈り終える前からリベカはすでに来ていました。
そして、その通りにします。
祈る先に すでに主は、その答えを用意してくださるのです。



 

備えあれば、憂いなし。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 9月 9日(土)10時26分49秒
返信・引用
  『備えあれば憂いなし。』

昨今、北朝鮮の、軍事挑発が顕著です。
日本政府は、防衛費を
GDPの1パーセント以内に
どんな時も抑制していましたが、
世界各国の防衛費は、
日本の防衛費をはるかに超えて、
毎年、増額しています。
その結果、
日本は、防衛力の低下が、顕著になってまいりましたよね。
何かあれば、外交で解決すればという方もおられますが、
現実は、
外交は軍事力なのです。
軍事力が 背景にある国は、交渉の相手になりますが、
無ければ、はねのけられます。
また、
北朝鮮に対応するため、
自衛隊の迎撃装備も、疑問視されていますが、
では、
それ以外に、何の方法があるでしょうか、
迎撃システムは、
高価で、しかも、
その実力は 100パーセントではないかもしれません、
しかしながら
たとえ、100パーセントの迎撃ができなくとも、
被害を 小さくできることは事実ですよね。
国民の 財産と生命を少しでも守れるのであれば、
装備する価値はあるでしょう。
100パーセント迎撃できないなら、
無駄と言う人もいるでしょうが、
これは、おかしな話です。
北朝鮮の 核とミサイルに対応できることは、何でもやる。
これしか今は ないと思っています。
また、
周辺国が、緊張を与え、軍備を拡大している中で、
日本だけが、軍事力を抑制し、防衛力の低下を招くとき、
周辺諸国は、
日本の領土、資源を狙ってくることは、
はっきりしていますし、
現に そのような事態と、遭遇しています。

防衛費をあたかも、無駄のように語る人もいます、
子供に使えばいいと、
社会福祉に使えばいいと、言う人たちもいます。
多分、その人たちは、
日本周辺のことについて、無関心な方たちです。
何が起こっても、わからない人たちです。
日本が、今、
どのような立場に、いるのか把握できないのです。
今さえ、平和であればよく、
今さえ 楽しむことができれば いい方たちです。
しかし、
事が起きて、日本が危機的になれば、後悔するでしょう。
その時は、遅いのです。
今のうちから、
日本の守りの備えは、しておくに越したことはありません。
それには、国民の理解も必要ですよね。





 

譲れることと、譲れないこと。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 9月 1日(金)09時10分29秒
返信・引用
  『譲れることと、譲れないこと』

北朝鮮の核とミサイルの問題で、
今、日本中の問題となっていますね。
そんな時
あるマスコミが軽率な発言をしていました、
北朝鮮の核とミサイルを、認めたらどうでしょうかと。
これは、後先考えない とんでもない発言です。
これを認めるということは、
将来的にも、北朝鮮の暴挙と恫喝を受け、
更には、
北朝鮮の要求をのみ続けることになります。
しかも、それは、
韓国と日本の核武装の開始にもなります。
当然、対抗のため、抑止のために、現実となるでしょう。
そうなれば、中国、北朝鮮、は、もとより
韓国、日本と、核保有国ばかりに なって行きます。
しかも、北朝鮮の経緯を見ると、
核を 暴力集団や、シリア、イランなどに、
売却することも、考慮しておかなければなりません。
こうなると、もう。手が付けられませんよね。
だから、
私たちは、何としても、
北朝鮮の核と、ミサイルを容認してはならないのです。

特に、私たち、キリスト者は、今の平和のためならば、
北朝鮮の 核とミサイルを認め
戦うことは、したくないとないうでしょう。
しかし、
その時は 良くても、
後に、その代償を 払う時が必ず来ます。

今思うのですが、
北朝鮮が そこまでになる前に、なぜ、手を打たなかったのでしょう。
大きな火事になる前に、火種を消さなかったのでしょう。
時に、
大きな決断と、勇気も、必要だったと思います。
いたづらに 時間的猶予を与えてしまい、
開発を促進させたのです。
もの事には、
『譲っていいことと、譲ってはいけないこと』があります。
私たちも、そのことを考えないと、このような、不安が、
将来にわたって、続くのです。





 

現実直視の信仰。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 8月25日(金)16時45分0秒
返信・引用
  『現実逃避をしない 強い信仰を持とう。』

私は「信仰」を語る時、現実を受け入れた信仰を語るようにしている。
今、疲れた人や、重荷のある人は、
イエス様のもとに来なさいとあるが、
これは、
一時、休んで力を得たら、
再び、重荷と共に、歩きなさいということで、
重荷がなくなるということではない。
信仰のサポートによって、
今にも崩れそうな心が、立ち直り、
また、パワーを得るということだよね。
私たちは、辛い現実から、目を背けたりしたくなるよね、
これは、見なかった、知らなかったことにしようと、
避けて通ることを考えがちだ。
どんなに、
見なかったこと、知らないことに したとしても、
それは、現実なのです。
辛いし、苦しい、
だけど、私たちキリスト者には、
現実が、立ちはだかろうとも、
それを乗り越える信仰の力があることを信じたい。
だから、
現実を直視する 信仰を いつも、持っていたい。
教会や、牧師は、往往にして、
今ある現実を、見ないようにと 教えられる時がある、
それも一つの方法なのかもしれないが、
私は、苦難の時に、試練の時こそ、
その現実を、受け入れるべきだと思っているし、
賛否はあるだろうが、私は、そのように考えている。
そうしないと、現実を避けてばかりでは、何もできないからだ、
そして、その時、
立ち向かうキリスト者には、 主が共にいてくださり、
主の最善を、用意してくださると堅く信ずるものです。

ヨシュア記にも、
「強く荒れ、雄々しくあれ」と ありますが、
そのようでありたいと思っています。

今そのような心が なくとも、
信仰があれば、そのようになります。
皆さん、信仰をもって、現実に、立ち向かいましょう。
決して 逃げないように、目を背けないようにしてね。
そこから、何かが、見えてくるものです。
試練の中にこそ、希望があります。
 

聖書の言葉。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 7月31日(月)14時26分15秒
返信・引用
  「イエスは答えて言われた、『神を信じなさい』

        聖書 マルコ11:22


「神を信じなさい」と主は言われますが、これは短い言葉ながら奥深く、広がりのあるものです。たやすく「ハイ、分りました」と言えない勧告です。それゆえに、人生を賭け、生涯追い求めるべきテーマでもあります。人生の様々な局面、紆余曲折にあたる節々で、この言葉をかみしめ、その力と命を体験するほかありません。今年も思わない事態や事件、状況に置かれるでしょう。そのたびごとに、主のことばを味わって生きましょう。
 

教会の2スタンダード

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 7月25日(火)10時10分21秒
返信・引用
  『キリスト教指導者は、2スタンダードを使い分けないこと』

キリスト教 教会では、
献金の際に、持ち合わせのない方はそのまま献金をパスしてください、
しかし、
これは、主に捧げる献金ですから、
喜びと感謝の中で 捧げるようにしてください。
まっ、はっきり言いますが、
献金は、
自由意志と言いながら、それを催促しているわけです。
さらに、教会信徒となると、月定献金なるものもありますよね、
これもはっきりいいます、
月定献金をささげている信徒と、
捧げていない信徒では、なにかしら、差別があります。
敏感な人は、そのことを感じるはずです。
そもそも、
月定献金は、その発端はともかく、
信徒をある教会組織の中に組み込むシステムでもありますから、
差別によって、
仲間と、仲間じゃない方に振り分けているというわけです。
このシステムは、かの昔、そもそも 10分の一をささげていたことに由来しますが、
イエス様到来後は、それらから解放され、
しかも、
福音は、価無しに与えられることになっています。
そのことを教会で、求められていることにも疑問があります。
献金は、各人 捧げられる金額に差があります、
それは、強制されることではありません。
本人の信仰の度合いによっても、変化しますし、
経済状態でも変化するものですよね。
今月は、余裕をもって捧げられる、
でも来月は少額しか捧げられないとかありますよね、
病の時だってあります、
イエス様は、捧げもので、祝福などの増減はされません。
多く捧げれば多くの祝福を受ける、この考えには、賛同できません。
主の 祝福と、恵みは、どんな状況であろうとも、等しいからです。

ある教会の牧師は、
自分の老後を心配し、せっせと蓄財していたり、
ある牧師は、
新会堂を立てたが、支払いができずに、
何回も、信徒に会堂建築の献金を求めたり、
そのために信徒は教会から離れていく数が多くなり、
更に献金を求めるという悪循環を招いている。
教会の無計画が このような結果を招くこともあります。
それでも、牧師は、気にせず、
自分の生活は、保全し、保身に走っている。
このような状況を見せられた時、信徒は、どんな思いになるでしょう。

やっとの思いで毎週、献金しているのに、
かたや 牧師ときたら、こんな あきれた様子、

さらに、私は、どこの教会と名前は言いませんが、
多く献金される方を優遇し、講壇の上から、献金の額を発表される牧師もおられ、
愕然としました。信徒の鏡みたいなコメントで、賞賛し、
あっ、教会って、やはり、ここもお金次第なのだと思いました。

まっ、献金に関して言えば、多くのことを思い出しますが、
それでも、
私は、それは、それで、別の次元のこととして、
そんな中でも、
純粋になろうと思っております。

とにかく、はっきり言いますが、
聖書の中に書いてあることと、あまりにも違いすぎます。
教会離れをする信徒を 教会信徒は、教会側、牧師側に立って、
いろいろ、あのてこのての聖句を引用して、非難しますけども、
もしかしたら、
その醜さを感じるビュアーな心を
欠損しているのではないかと思ったりも致します。
むしろ
それらを知り、教会から、離れる信徒の方が、純粋であるのかもしれませんよ。
教会は、どこも同じよ、なんていう人もいますよね。
その感覚でいられる人は、それは、それでいいでしょう。
しかし、耐えられない人もいるのです。
そのことも 理解すべきだと思います。

教会の二枚舌には、ご用心、
敬虔さの中に潜む 傲慢にも、ご用心、

教会を改めて、観察すると、こんなきもちにも、なります。

献金って、いったい何だろう。
教会につながるって、いったい何だろう。
真理はあなたを自由にするって、何だろう。

そう思うことだってあります、
しかし、
それでも、聖書に親しみ、
イエス様をこよなく愛していられる方たちも おられます。

その人たちも希望と、夢を持っているのです。
これは、否定できませんよね。

主に栄光がありますように。(*^-^*)





 

箴言 25:21-22

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 7月17日(月)18時26分14秒
返信・引用
  「もしあなたのあだが飢えているならば、パンを与えて食べさせ、もしかわいているならば水を与えて飲ませよ。こうするのは、火を彼のこうべに積むのである、主はあなたに報いられる。」

          聖書 箴言25:21-22


「敵に塩を送る」という故事がありますが、神様は罪人であり、敵であった私達のためにイエス様をこの世に送って、この事を実践してくださいました。それは私たちもまた同じように歩む模範を残されたのです。しかし、それを実行するには、神様が報いてくださることを信じなければできません。
 

信仰短言

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 7月16日(日)16時12分32秒
返信・引用
  『信仰短言』 沖縄県 那覇バプテスト教会


「永遠の主のもの」

「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。 アーメン」

        聖書 マタイ 6章13節

主の祈りの最後の一文は、
祈りと言うよりも
信仰告白と言った方がよいのかもしれません。
この告白は今まで祈ってきた方「天の父なる神」が、
どのような方であるかを証しているのです。
それは、
国、力、栄光、この地上で権威のあるもの、
誉のあるもの、栄のあるもの、と言われる一切は
神様のものであるという告白です。
元来
全てをつくられたのがこの主なる神様であることを認めるならば、
当たり前のこととも言える告白です。
しかし、現実には、
人間はあたかも全てを自分の力や当然の権利のように思って、
感謝することの少ないものであり、
本来の造り主に心を心を向けることが少ないものなのです。
この告白を通して全てが主から生まれ、
主に栄光を帰すためにあることを認めるべきなのです。
そして 最後に 「アーメン」で祈りを締めくくります。
アーメンは
ヘブル語の「真実です」や「同意します」などの意味で、
共同体としての告白です。
誰かが祈った時、
その内容をしっかりと受け取り
心からの信仰の同意をもってアーメンと言いましょう。
賛美の終わりには、
作者の信仰告白に心から、同意して、アーメンと言いましょう。
主の祈りの内容が
私たちの日々の歩みの中で、「アーメン」となるように。



 

聖書 詩編3:5-6

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 7月14日(金)13時36分8秒
返信・引用
  「わたしはふして眠り、また目をさます。主がわたしをささえられるからだ。わたしを囲んで立ち構えるちよろずの民をもわたしは恐れない。」

            聖書 詩篇3:5-6


この詩篇の記者のように、心からの安心を得て休むことができれば、どんなに幸いなことでしょう。これほど確信して、神様に信頼したいものです。その秘訣は十字架を信じる以外にありません。それは愛するゆえに、あなたのためにたてられたものだからです。神様はあなたと共にいて、味方となり、全ての敵から守ってくださいます。主は常にあなたの側にあります。
 

九州大水害

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 7月 8日(土)20時22分15秒
返信・引用
  このところ、九州は、大雨に見舞われ、九州大雨大災害なるものが発生し、
特に、大分県の方では、死者が何人も出ていたり、孤立しています、
山の木が立ったまま、移動していったとのことです。
文字通り、聖書の山よ動けの世界です。
木はなぎ倒され、
土砂は、流れ出し、川を埋め、
家々を飲み込み、ほんと恐ろしい世界です。
しかし、日本は、まじに、自然災害が、多いですね。
人為的な、原発事故もありましたが、なんせ、自然はすごい。
こんなのを見せられては、世の終わりの時も、想像できますね。
早く、回復してほしいと願っています。
亡くなられた方たちの、ご冥福を祈ります。
 

捧げる側と、捧げられる側。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 7月 2日(日)19時11分15秒
返信・引用
  。『捧げること、捧げられること、について一言。』

私は、このことに正直こんな意見を持っています。

基本的に、
捧げる人が、いくら捧げる意思を明確にしていても、
捧げてもらう側は、
だからといって、当然のように思わないことです。
神様にささげますと言われた方に対しても、
当然のごとくに思い、無視しないことが大切です。
きちんと、そのことへのお礼を
捧げられる側は、明確にすることが大切です。
捧げた方は、
これは神様にささげたものですと、言われるかもしれません、
しかし
完全な信徒なら、それも通る話です。
残念ながら、
捧げる側も、捧げられる側も、不完全な人たちです。
いつか、私は、こうしたのに、
教会は、牧師は、なにも お礼を言わなかったとこうなるのです。
つぶやきを 語るのが人の常です。
心の中は
神様しかご存じありませんからね。
だから、
くれぐれも、そのことは、注意すべきなのです。
これを あなたは、肉の思いで語っていると言われる方もおられます、
では、あなたは、
不平不満を語ったことはないのですか、
このような些細な事が、
教会や、牧師の 信頼信用を 失墜させていくのです。
いくら聖書に書かれているからと言って、
世の礼節を 守らなければ、
キリスト者としてではなく、人としても失格していくのです。
世の人ですら、
いただけば、ありがとうと言う 感謝の言葉が返ってくるからです。
キリスト者は、
世の見本となるべきです。
私は、そのように思っています。
また、そのことは、
次にも、捧げたいという心を 誘発してくれます。

主に栄光がありますように。
 

教会でのこと

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 6月11日(日)08時58分52秒
返信・引用
  皆さん こんばんわ
少し前
私の知人の ある兄が
所属の教会内で
教会と牧師様に 反論することは
また
いかなることにも 反対することは
絶対に赦されないとのことを
述べている信徒様が おられたというお話を伺って
なんともいえぬ 気持ちに なりました。。。。。
その兄は
高圧的で 支配的な牧師様のいる教会から
やっとの思いで 離れた体験があるので
また
現在 通っている教会に
そのような信徒のいることが なにか 不安だと いわれました。
私個人の意見として
教会内で
建設的 肯定的な 希望あることを 語ることは
主の教会を
建てあげていくために
前進させるために
大切な ファクターの 一つと 思います。
だけども
教会も 牧師様も
絶対 正しい側に あるという前提も 危険な思想です
そこには
アーメン 然り ばかりの イエスマン?だけを つくっていくことの 怖さも併せ持っています。
牧師も
神様ではありませんせんから
当然 時には 間違いも犯します 罪も犯します。
教会だとて
過去において
大きな間違いを 幾度となく 犯してきた経緯も 現実も あります。
そのことを 無視して
自分達に 都合の良いように
聖句までを乱用して
指導したり 誘導したりすることは
そこに 何か 不自然さを 感じます。。。。。。
いくら
教会といえど
牧師といえど
悲しいかな教会内とか 牧会で
何か 問題が 発生しますと
組織防衛とか 保身とか 身内擁護 その他に 走る傾向が
顕著にあります
こんなことを 書きますと
教会と 牧師様に対して
懐疑心を 植えつけているようにも 取られかねませんが
私達 信徒は
特に
何が 御心にかなっているのか
何が 主の思いに近いのかを
しっかり 聖別できるように
主に 問いつつ
祈りの中で 見極めなければ なりませんよね
何でもかんでも 吟味しないで 受け入れて
後で 取り返しのつかない事態になったケースも 多々 あるからです。
この聖別を かけるのは
決して 不信仰ということでは ないのですから
聖書のあるように
そのときは
勇気を持って
あえて ノーと 否と 言うときも あっていいのです。
そのことが
教会や牧師様の 傲慢や ある意味 支配を 防止することになり
教会内部の 健全化に 浄化に つながっていくのだと 思います。。。
それから
くれぐれも 言いたいのは
全ての 教会が 牧師様が
懐疑心を 抱かれる対象では ないということです
ほんとに
全力で 真剣に 宣教の業に
また
牧会に 力を注いでおられる
教会が 牧師様が 大半です
しっかり そのことを 覚えてくださり
この ことを
皆さんで
何かの機会に 話しにくいでしょうが
問うてみることも ディスカッションしてみるのも
いいのではと 思います。
各自の教会 各自の牧師様たちのためにもです。

それから
教会で 躓いた方たちの お話を聴きますと
教会が裁きの座に着いたり
牧師の高圧的支配が及んだ時
信徒間の人間関係
逸脱した献金と奉仕過多の問題等
などが 多いようです。
これらに心を留めて
日本中のキリスト教会から この例が いくばくかでも減少し
宣教の業が
真の喜びと 感謝の中で 飛躍的に 前進できますように
願い 祈っております。

ハレルヤ 主に栄光がありますように
 

日々の御言葉

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 6月11日(日)08時48分3秒
返信・引用
  人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。

           聖書 詩篇 37:23,24
 

『植物とキリスト教のシンボリズム。』

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 5月31日(水)15時17分11秒
返信・引用
  『植物とキリスト教のシンボリズム。』

●ユリ

穢れのない処女の性器を象徴するユリは、
童貞処女の「純潔」のシンボルとして
「受胎告知」などの宗教画にしばしば登場する。
ユリ同様、オレンジの花も処女性や清純さの象徴。
そこで、花嫁はオレンジの花冠をかぶる。

●樫(オーク)

異教であるドルイド教の聖木で、「女性原理」を表す。
キリスト教では、この木がキリストの十字架の用材になったとする。
(他にもヒイラギ、ポプラなどの説あり)
そこから、逆境の中で揺るぎない信仰を貫く
キリストの象徴ともみなされる。

●ヒイラギ

上に述べたように、十字架の用材説があり、
ヒイラギの刺状の葉が、「茨の冠」「受難」、
赤い実が「キリストの血」とされる。
ただし
ヒイラギは、ローマではサトゥルヌス神の聖木で、
「健康、幸福」の象徴とされる。

●茨

キリストが、処刑の際に冠としてかぶせられた茨は、
キリストの「受難」の象徴。
また、
「苦難」や「罪」を意味する。

●オリーブ

ノアが箱舟から放った鳩がくわえてきたのはオリーブ。
そこから「神と人間との和解」の象徴とされ、
「平安のうちに世を去った信者の魂」ともみなされる。
鳩とオリーブの図案は「平和」の象徴。

●ブドウ

キリストの「血」。
そこで、ブドウの房の間にいる子羊の図は、
キリストの犠牲の象徴になる。
アダムとイヴの楽園追放の原因となった「知恵の木」は
ブドウだと述べている外典もある。

●リンゴ

キリスト教伝説では、通常、リンゴは楽園の「知恵の木」とする。
そこで、人を堕落に導く「悪の誘惑」とみなされるが、
キリストやマリアと共に描かれる場合は、
「新しいアダム」と「救済」の象徴となる。


 

信仰短言

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 5月29日(月)13時14分25秒
返信・引用
  【 信仰短言 】

「御国が来ますように。。。。」

  聖書 マタイ6:10


イエス様がおおよそ30歳から約3年半を弟子と共に
神の国の福音を語って過ごした時期を「公生涯」と言います。
その終わりは、十字架と復活そして昇天であり、
その後に、教会が始まります。
イエス様の公生涯最初の宣言は
「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて、福音を信じなさい。」(マルコ1:15)
でした「
「神の国は近くなった」とは
旧約聖書の時代には 神の国とは遠いものであり、
イエス様がお生まれになって神の国が近づいたということです。
神の国とは何でしょうか。
普通に考えると、天国とか死んだ後に行くところのようなイメージがあるでしょう。
しかし
イエス様の言われる言われる神の国とは、私たちの生きるこの世界に近づき、
実現するものなのです。
イエス様御自身こそが実に神の国なのです。
そのイエス様が模範的に教えられた、主の祈りの2番目の祈りとして
「御国が来ますように」と祈ることを奨めます。
この御国とは地上のどこかにある国や地域ではなく、
神様御自身の支配そのものを指す言葉です。
つまり私たちはこの地上が罪に支配されるのではなく
神様の御手が伸ばされることを祈っているのです。



 

献金は必要ない。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 5月29日(月)11時50分34秒
返信・引用
  『えっ、献金しなくていいって牧師が言って、ええんかい。』

8月25日の 沖縄バプテスト教会で、
城倉翼牧師が、大胆な発言をされました。
私は、主任牧師ですが、献金は、できる範囲で結構です、
また、お金がないのなら、献金はしなくていいですし、
たとえ、お金があっても、したくなければ、献金は、しなくて結構ですと、
正直、教会は困りますが、
それでも、那覇バプテスト教会は、何とかやってきました。
なので、
極論、献金はしないでも結構です。
そう言われると、
何か、献金の意味を 深く自分に 問いただしますよね。
しかし、
城倉牧師も、大胆なことを言われる。
いやいや、
私も そうは思っていますが、
組織を運営するためには、維持するためには、
なにがしかの お金が 必要なことは、必至です、
そういう中で、それをわかりつつ、
本質は、そうでありたいと 思っていらっしゃるのだろうと思った。
あえて、それを公に語ることで、
城倉牧師の 気持ちが 伝わりました。

献金は必要ない。

これは、重い言葉で、
他の牧師や、教会からの 批判が来るでしょうが、
あえて、語られた。

私は、献金とは、義務ではなく、
捧げられる人が、
捧げられる金額を 捧げればいいと思う方だし、
ましてや、
上から目線で、
捧げた上に さらに捧げなさいという教会が もしあるなら
そんな教会は、行く必要もないと 思っているので、
もちろん、賛同いたしますが、
こう はっきり言われると、なにか、変な感じだね。
頭脳プレーで、アンチテーゼとして、語っていられるのだろうが、
友人も、うんうんと 共感していた。(*^-^*)

 

今日は母教会の姉と共に。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 5月28日(日)21時26分25秒
返信・引用
  『本日の礼拝は、母教会の姉と共に、礼拝いたしました。』

本日 5月28日の主日礼拝は
私の母教会の姉が、
仕事のための学会で、沖縄コンベンションセンタ―に来られたので、
木曜日から、日曜日まで、沖縄にいるということで、
私たち夫婦と、その姉とで、
沖縄バプテスト教会の礼拝に、行きました。
私の母教会は、
日本バプテスト連盟に加盟していて、
長崎県 壱岐市にある、
壱岐キリスト教会でして、とても雰囲気のある教会です。
遠い所から 来られたので、たくさんのお話をいたしました。
信徒様の様子も、教会の様子
ふと、母教会にいるような 錯覚に陥りました。
教会の、さらなる発展を祈りつつ、見送りました。
正直、
名残惜しかったですよ。
私の妻も、大変 喜んでいました。
 

信仰も熱くなりすぎると。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 5月21日(日)08時36分48秒
返信・引用
  『熱心すぎるとキリストの御心からかけ離れる。』

最近思うことがあります、感じることがあります。

信仰に 熱くなりすぎると、

人は 信仰を深めたつもりが、逆に 遠ざかっていますよね。

本人は、そのことを気が付いていないのです。

聖書を一字一句 残さず頭の中に 叩き込んだつもりでしょうが、

それは、

聖書の言葉をただ学問のように学んでいることにすぎません。

私は、こう思っています。

聖書を本当に理解した人は、

御霊の実に溢れて、やさしさ、寛容さがあります。

間違って理解した人は、

我がことをさておき、裁きの座についてしまいます。

聖書に忠実にを かさにきて、

冷たい信仰へと変貌していきます。

原理主義が冴えたるものです。

イエス様は、そのような信仰を求めたでしょうか?

イエス様は、人を断罪することを好んだでしょうか?

皆、信仰にある者は、己を顧みるべきです。

イエス様の心を 内に持つべきではないでしょうか。

イエス様の似姿に少しでも近づくのが、

正しい信仰の歩みと思います。
 

十戒の違い。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 5月16日(火)16時37分54秒
返信・引用
  ある方が、フェイスブックで、カトリックとプロテスタントの
「十戒」の違いを指摘してありました。
それで、
Yahooの知恵袋というところに、
そのことがありましたので、取り上げてみました。
私個人は、
プロテスタントの信徒なので
当然、プロテスタントの方を取りますが、
かといって、
カトリックを否定するものではありません。
それぞれの 教団、教派は、
尊重されなければならないからです。
下記は、
プロテスタント、カトリックの方が、
参考にすればいいと思っております。

『プロテスタントとカトリックとモーセの十戒』

ーキリスト教の宗派ー

キリスト教の宗派は複数あります。

一番大きな宗派は、「カトリック」と「プロテスタント」です。

(この二つが分離するきっかけとなったのは、ルターの宗教改革を参照してください)

カトリック

カトリックはローマ法王を頂点としたキリスト教宗派です。

免罪符やミサや聖母マリア、など聖人崇拝を持ち、十字架の前に膝を折って十字を切って祈ります。

洗礼名があるのもカトリックの特徴の一つです。

【プロテスタント】

プロテスタントはカトリックから分離した宗派です。プロテスタントの由来は抗議する、から来ています。

プロテスタントは牧師がいて、信徒がいる、といった非常にシンプルな構造です。

カトリックのように、ピラミッド型の組織をしていません。

そして洗礼名もありません。ミサもありませんし、聖母マリア像を飾ることもありません。

プロテスタントの牧師はカトリックの神父のように結婚してはいけない、と禁止されていません。そのため、牧師は普通に結婚して、所帯を持ちます。

ただし、葬式やお墓参りなどのとき、厳しい制約があり、位牌やお墓に手を合わせることを禁じています。それは偶像崇拝にあたるからです。

葬式に参列してもお焼香だけです。

通っている教会によっては、お焼香もやってはいけない、と言っているところもあるそうです。

その場合は、献花をすると聞きました。

洗礼や信仰告白をした完全なクリスチャンの方々は、お焼香ではなく、献花をするほうがよいと考えます。

【プロテスタントの宗派】

プロテスタント、といっても複数の宗派があります。

クエーカーや長老派、バプテスト派、カルヴァン主義など、もっと多くの宗派があります。

その中にも異端と呼ばれる宗派もあり、キリスト教を知らない人が見てもどれが正しい教えを信徒に話しているのか見極めは難しいです。

そのせいで、プロテスタントはカルトが多い、と言われますが、本当のところは逆です。カルトがプロテスタントを名乗るのです。

異端かどうか、本当に正しき道を説いているか、の基準は難しいですが、献金と勧誘のことを以下に記述します。

献金は個人が自由に金額を決め、教会へ納めることができます。

たとえ牧師であろうと、信者に献金金額をいくらと強要することはできません。そして勧誘も同じです。

神のために、と働きたいのであれば、ギデオンに入ることをお勧めします。

【モーセの十戒】

モーセの十戒はカトリックとプロテスタントで大きく違う箇所があります。

それは「偶像崇拝をしてはいけない」と書かれている箇所です。

カトリックはこの箇所を削除して、十戒を割りましして信者に教えています。

当然、聖書にも偶像崇拝の箇所はでてきません。

プロテスタントは偶像崇拝をする者に厳しいです。それが日本人の反発を招くことになってはいるのですが、神の道に行きたいのであれば、守らなければなりません。

【偶像崇拝にあたるもの】

偶像崇拝は簡単にいうなれば、形あるものを拝むこと。

位牌やお墓に手を合わせること、そして十字架に手を合わせることもまた、偶像崇拝にあたります。もちろん、初詣もおみくじもダメです。占いも禁止事項にあたります。

プロテスタントは葬式に行っても、頭を下げ、ご焼香をあげるだけです。(洗礼、信仰告白をされた方は献花のみがよいと思います)

もちろん、江戸時代にあったキリストの像を踏ませる踏み絵も、プロテスタントは踏むことができます。

最後に

宗教というものは、いい面も、悪い面もあります。神が人に与えた聖書も、人が変に歪曲し、解釈することで悪いことに使用されたこともあります。

大事なのは「聖書」をよく読むことです。

そして聖書をあるがままに読むこと。

韓国はキリスト国といわれますが、本当にプロテスタントと呼ばれるのは少ないでしょう。

アジアでは土着の宗教に、キリスト教を組み合わせて変容した宗教になってしまうことがあります。

本当に正しいかは、内部に入って牧師の説法、そして使用している聖書を見なければ判断はつかないのです。

また、聖書の一部の記述が正しくない、この箇所はまったくの間違いである、という教会は正しい教会ではありません。聖書は完全なものであり、間違っている箇所はありません。また直すべき個所もありません。

聖書を改めるべき、とする教会は避けてください。
 

憐み深いイエス様。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 5月11日(木)20時53分9秒
返信・引用
  『ユダは私たちの姿、そして、イエス様の愛ははてしない。』

皆さん イスカリオテのユダをご存知でしょう、
イエス様を裏切った弟子として、あまりにも有名ですよね。
そのユダの姿は、私たちそのものです。
最後の晩餐で、
イエス様は、あえて、
イスカリオテに計画していることを実行しなさいと、
勧めましたよね。
それは、イエス様の愛ある配慮だったと思います。
ユダが自分を売り渡し、
その先導をしていたことを知っておられたのです。
ユダは、裏切りましたが、イエス様の愛する弟子の一人でもありました。
ユダが、この後、後悔にさいなまれることすらも、ご存知でした。
形の上で、
ユダが先導したのではなくて、イエス様自らが、命令を下して、
自らが捕まるようにしたとも考えられます。
それは、愛するユダに、
この大きな罪を、背負わせたくなかったからだと 思います。
また、
ユダが罪を悔い改めるなら、
イエス様は、
きっと、ユダを赦すことに、いささかの 躊躇もしなかったでしょう。
なぜ イエス様を売り渡した後、
イエス様に、赦しを求めなかったのだろうかと思いました、
この事が、悲劇なのです。
私共は、自分を考えるときに
ほとんどの人が、ユダの側にあることを知りません。
人間とは、そうしたものなのです。
自分は、常に、良いほうの側に立とうとしますが、
実は、聖書では、悪の側に立っていることが多いのです。
イスカリオテのユダを思うとき、
同時に、自分の姿を思います。
そして、
イエス様の配慮と、
その 大きな愛に、思いをはせるでしょう。

 

良い教会&良い牧師の定義とは

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 5月10日(水)11時30分59秒
返信・引用 編集済
  『良い教会&良い牧師の定義とは一体何だろうか。』

心ある教会の信徒たちは、
勇気をもって、あえて、教会批判や、牧師批判をいたします。
それは、
教会という閉ざされた、閉鎖空間の中で、
一種独特の上下関係があったり、
一種独特の人間関係が、発生するからです。
また、
黙して語らずが横行し
教会であるにもかかわらず、無関心がまかり通っているからです。
さらに、
教会にとって都合のいいことは、大きく取り上げられ、
教会にとって、不都合となることなどは、
覆い隠されるという隠ぺい体質が、あるからですし、
牧師は、批判の対象となると、
他の牧師も それを擁護する、庇いあう体質が あるからです。
信徒も、飼いならされた状態では、
一体何が問題なのかすらも、わからない状態となります。
その場から遠ざかってみると、
その問題が なんであったのか くっきり見えてくるのです。
問題のない教会というのは、
問題がないからこそ、問題なのです。
信徒も、牧師も、教会の変化に、気づいていないのです。
問題を抱えて、
それを 教会内部で、発言できる教会こそ
正常な 教会といえるのです。
私のところは、とてもコミュニケーションのとれた
問題のない教会ですと、言われる方たちも、多いと思います、
それはそれでいいのですが、
一応、点検することを お勧めいたします。

さて、
批判するのは たやすいことです。
政治では、野党が この手法を 使いますよね、
それでは、何の意味もありません。
そこで、
良い教会&良い牧師とは何だろうと、
考察してみることにしました。

☆一般に 良い教会&良い牧師とは☆

●信徒の話を 親身になって、聞いてくれる傾聴の姿勢があること。

 礼拝はともかく、
●信徒と牧師などの地位を あからさまにし
 相手を支配するような言動をとらないこと。

●教会経済を明朗会計ににしていること。

●献金は本来、自由であるのに、それを義務のように しない、言わない。

●牧師は、神の仕える僕である。
 それゆえに、それにふさわしい、人間性を持つこと。
 御霊の実によって、満たされていること。

●牧師は、神の権威を振りかざし、高圧的に、信徒を支配しないこと、

●教会と、牧師は、その影響力を行使できるので、
 政治的な発言は控えること。

●日曜だけの教会にしいこと。
 牧師の休日以外は、教会も時間を決めて門を開き、信徒を迎え入れること。

●牧師は、いかなる社会的地位の信徒とも、公平に接すること。

●教会の雑用、行事には、牧師も共に汗を流すこと。

●自教会の新だけに限らず、他教会の信徒へも、思いやりを持つこと。

●教会の改善のために 発言をされてある信徒を
 牧師を裁いているなどと 決して思わないこと。

●開かれた、敷居の低い教会を目指すこと。

●教会から離れた 一匹の羊を 取り戻すことをする。
 伝道ばかりでなく、そこにも努力する。



これ以外にも ありそうですが、こんな感じですね。
厳しい要求かもしれませんが、
信徒も同じく、それを求められていますよね。

それから
キリスト教牧師は、その閉鎖空間の中で、
ある意味、特殊な精神構造を 持っているため、
神の権威によって、守られていると思い、頑なな心を持っている人が多く、
また、
へんなプライドの高さによって、
変化すること、改善することに、抵抗を 示したがります。
ですから
良い教会&良い牧師に 変えていくことは、難題ですよね。

でも、
御霊の一致によって、それを成し遂げれば、
日本のクリスチャンの増加も 望まれるかもしれません。
キリスト教も、幅広く受け入れられていくことだと思います。

変わろう
キリスト教界&教会&牧師&信徒 これがスローガンですね。
 

聖書の改編

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 5月 8日(月)11時49分4秒
返信・引用
  『聖書の改編にあたり思うこと。』

このところ、聖書が新しく改変されたとのことをよく聞きます。
それについて、
私の個人的な見解を語りたいと思っています。
賛否ありましょうが、
良かったら読んでいただければ幸いです。

私は、聖書が時代に合わせて、現状に合わせて、
改編が あるたびに 思うことがあります。
聖書は、
霊に導かれて 誤りなく書かれた書物だと 書かれてあります。
また、
聖書自体に 付け加えたり、省いたりすることは
してはならぬと、忠告されてあります。
まず、この事を思い、
行き過ぎた 時代に合わせた改編に、やや疑問を持っています。
改編とは、
皆さんに、聖書を読みやすく、わかりやすくとのことで、
そうされているようですが、
これが 繰り返されれば、
ある特定の人たちの、限られた注釈や解釈が、
聖書に 反映されてしまわないかを 危惧しています。
私の勝手な考えでは、
聖書は、振れ幅は ある程度あっていいと思っています。
各 牧師によって、
注釈や、解釈の差があっていいと思っています、
それは、
聖書を幅広くとらえられる 余白だと思っています。
また、
よく聖書に 使われる言葉が、
障碍者に 同性愛者に、適さない言葉だと、言われる時がありますが、
だからと言って、
それを換えてしまうことが いいのかと思うときもあります。
むしろ、
それを、あからさまに 真実に 書き記してあることで、
そのことに対する、時代のとらえ方の違いを 浮き上がらせ、
理解を求める事につながるのではないか、とさえ思っています。
とにかく、
改編は良いことのように、思われますが、
そして、
それを最新の聖書と思い、多くの人たちは、求めたがりますが、
どうでしょう。。。。。。
聖書は 変わらないから、聖書なんです。
改編していくことを是とする風潮に
なにか、キリスト教会の 堕落さえ感じます。
私は、古いのかもしれませんが、
直感的に、それを感じました。
人の伝言と 同じに したくはありませんが、
伝言するにあたり、
人を多く介せば、それだけ、元の伝言が歪んで、
間違って 伝えられていくということもあります。
そんなに、現代風に、したければ、
現代語で聖書が書かれてある
リビングライフ聖書で いいのかと思います。
しかし、
一つくらいは 持ちたい聖書となると、
不変のもので ありたいと願います。
原本に忠実に
ヘブライ語、ギリシャ語、ラテン語と、言う人たちもおられますが、
その翻訳は、神学者、専門の方たちに任せ、委ね、
日本語聖書の中で、
日本のクリスチャンは 学んでいけばいいのだと思います。
その時々で、
必要な言葉の誤差は、ニュアンスの違いは、
訂正、修正すれば いいのであって、
聖書を根本から、改編する事は 良いのかなと、疑問を持ちました。
また、余計な詮索をすれば、
聖書を改編すれば、
たくさんの利益を生み出すことにもつながるから、
キリスト教界や、その関係の方たちからすると、
メリットが あるのかなと よからぬ思いも持ちました。
まっ、
私個人は、聖書の改編にあたり
このようなことを 思った次第であります。




 

日々の御言葉

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 5月 6日(土)20時00分6秒
返信・引用
  「よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、神の御使たちの前でよろこびがあるであろう。」

             聖書 ルカ15:10


世間では数が多ければ勢いを誇示できると思いがちです。しかし、神様が求めておられるのはただあなた一人です。ひとりの悔い改めが天での大きな喜びを引き起こします。それほどに、神様はあなたに心を注いでおられるのです。そのあかしがイエス様の十字架です。どんな境遇にあっても、今日、主のご愛と顧みを感じつつ生きてください。
 

知っておられる神様

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 5月 2日(火)10時06分38秒
返信・引用
  『知っておられる神様。』 沖縄 那覇バプテスト教会 主任牧師 城倉翼


「あなたがたの父なる神は、あなた方がお願いする先に、あなた方に必要なものを知っておられるからです。」

        聖書 マタイ6章8節


人間は他の動物と違って 祈る存在です。

それは創世記の初めに記されているように、「神の形」に造られ、創造力と形作る力、さらには神様と人格的に交わる力を与えられたからです。

神様との交わりの最も端的な姿が祈りです。

祈りは自分の願い事を繰り返して、いつか神様が聞いてくれるまで何べんでもいいつづけることではありません。

マタイ6章7節でイエス様はそのような祈りを否定しています。

また立派な言葉や場所、時間、すたいるによってなされるものでもありません。

祈りとは神様との交わりであり、ある意味では神様の御思いを探る行為なのです。

なぜなら御言葉にある通り、神様はすでに私たちに必要なものを知っておられるからなのです。

もしも祈りが何かを求めるだけのものであるならば、全てを知っている神様は私たちの繰り返し自分の願いを言い続ける祈りに対してどう思うでしょうか。

むしろ祈りを神様との人格的な交わりの時と位置づけ、親しくそこにおられる神様に語り掛けるようにすることが大切です。

このような祈り手は祈りの本質を知っているので、祈りが喜びであり、力となります。

生きて働く神様を朝ごとに夕ごとに祈るたびに体験します。

このような祈り手にさせていただきましょう。

神様は私たちの全てをご存知です。
 

いつも感謝

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 5月 1日(月)14時15分31秒
返信・引用 編集済
  『祈ったことと現状が違っていたとしても。』

私たちは、いろいろな願い事を神様に祈ります。
でも、
それがなかなか 聞き届けられない時がありますし、
願っていることと 現状があまりに違うことがあります
神様の思いは 人より高いといいますね、
神様の思いは、人である私たちには、到底理解できません。
しかし
神様は、私たちを最善の方向に導かれてあります。
今 現在、何ゆえに このようにされるのかと 思いつつも、
感謝の先取りをしましょう。
思った通りになったとしても、
思った通りにならなかったとしても、
神様に 感謝を いたしましょう。
人から、何と言われてもいいから、
感謝いたしましょう。
神様の御判断は、
私たちの考えより、ずっと上なのです。
わけがあって、その現状をお与えになっているからです。
後になれば、わからないこともわかるようになるとありますし、
全ての事は 万事 益となるといいます。
どんな時も 大丈夫、
神様に、
全てにおいて、
祝福の先取りである感謝をささげましょう。 (*^。^*)
 

アーメン

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 5月 1日(月)10時02分32秒
返信・引用
  『神様に、教えるような祈りであってはならない。』

神様は、全知全能の御方である。
神様は、私たちの髪の毛の数さえご存じなのだ。
私共は、祈る時、何らかのお願いをする傾向が強い、
その前に、
先ず、主を褒めたたえることを しようではないか、
また、
祈る時、祈りの内容を くどくど事詳細に語る傾向がある。
それは、
神様に
祈りの内容が届いていないように思っているかの如しである。
神様は、
あなたたちが語られる前から、その祈りの内容をご存じなのだ、
だから、
神様に祈りの内容を教えているような感じで、
祈ることは、間違いということになる。
それとも、人に聞かせるように話しているのだろうか、
それも おかしなものである。
祈りは、ただ だらだらと 長く祈れば聞かれるものではない。
短く簡潔に祈っても 聞かれるのだ。
また、
祈りを流ちょうに祈れることを、是としている傾向があるが、
そんなことはない、
思った通りに、祈ればいい。
ただし、
祈る相手は、神様なので、
神様への賛美や 褒めたたえることをは、忘れないようにして。

これは、ある牧師が 語られていたものです。




 

信仰短言

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 4月30日(日)18時49分35秒
返信・引用
  【信仰短言】 沖縄県 那覇バプテスト教会

「神は知っておられる」

「あなた方の父なる神は、あなた方がお願いする先に、
あなた方に必要なものを知っておられるからです。」

      聖書 マタイ6章8節

私たちは、神様のことをわかっているように思いますが、

実の所ほとんどわかっていません。

神様の御計画、神様の御思い、

そして私たちの人生にについての御業。

全てを知ることはできないのです。

しかし

神様の方では私たちのことをすべてご存知です。

その人生も、行く道も、そして必要なものも。

髪の毛の数すらも 知っておられるというのです。

ですから

神様に委ねることこそが

最大の祝福であるということを覚えたいものです。

ともすると

私たちは 神様の御心が わかったように思う時があります。

しかし

多くの場合それは大きな罠となります。

伝道者の書に

「人は神が行われる御業を、初めから終わりまで見極めることができない」
(3章11節)

とある通りなのです。

主が教えてくださった 主の祈りは祈りの模範ですが、

その前提は

神様は全部ご存じだから、こう祈るのです、という御言葉があります。

ただ願いを求めることが祈りではなく、

神様の御心に近づこうとする。

神様と親しく友なる時間を過ごす。

これが 祈り なのです。


 

参考になりました。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 4月21日(金)21時37分22秒
返信・引用 編集済
  ぜひ、皆さん、この記事を読んでいただきたい。目から鱗です。

ー松山大耕ー

『宗教の寛容性を今一度 見直すべき理由。』

私は今から35年前、ここ京都のお寺で生まれました。お寺の子供として育ちましたけれども中学校・高校はカトリックの学校に行っておりました(笑)。お寺に生まれながらにしてキリスト教の教育を受ける。

これは非常に珍しいことではありますけれども、家族それから親族友達を含め皆暖かく見守ってくれました。大学時代に私アイルランドに行ったことがありました。アイルランドはご存知の通り敬虔なカトリックの国ですけれども、そこのある田舎のB&Bに行った時に女将さんに私の生い立ちを説明しました。

すると女将さんは急に顔色を変えて次のように言いました。「あなたの国では何でそんなことができるの?アイルランドでそんなことをやったらあなた殺されても文句を言えないわよ」とこういう風に言われてしまいました。

私はすごく若かったので残念ながらその女将さんに全く反論することができませんでした。日本人の宗教観は非常に独特なものがあります。例えば多くの日本人はキリストの誕生日であるクリスマスをお祝いし、年末にはお寺で除夜の鐘を聞いてそしてお正月には神社に初詣に行きます。

日本以外の方からは「なんて節操のない」という風に言われることもあるんですけれども、しかしここ日本では非常にこういった宗教の寛容性というのは一般的です。私はこの宗教の違いというのは「食」の違いに似ているんじゃないかなという風に思ってます。

例えば、和食と洋食の違いを考えてみましょう。洋食のコース料理を頼みますとメインディッシュというのが出てきます。そのコースのハイライトですけれども、和食にはこう言ったメインディッシュというのはありません。

例えば伝統的な懐石料理を注文しますと、先付け椀物から最後のご飯にいたるまでメインという考え方はありません。私はこの食と同じようにこの日本人の宗教観もある特定の宗教だけを特別視するのではなく、全ての宗教に共通する倫理観もしくは哲学こういったものを日本人は大事にしていると思います。

ですから日本人の宗教観というのはBelieveinsomething(何かを信じる)ではなくてRespectforsomething(何かを敬う)もしくはRespectforothers(他者を敬う)こういうスタイルが日本人の宗教観です。

ですから日本では色んな宗教を信じている方がいらっしゃいますが、お互いに尊重しておりますし、実は私がいるこの妙心寺でもお寺ですけれども神社の神様にお経をあげる機会も結構あります。

そしてお寺の中に神社がある所も沢山あります。ですから日本の仏教というのは非常に特異な形をとっています。例外はありますけれども日本のお坊さんは妻帯を許されていますし、修行中はお肉・お魚を慎んで精進料理をいただきますが、修行が終わってしまえば特別厳しい戒律はありません。

しかしこの日本では物を残すもしくは無駄にする、こういったことは非常に敬遠されます。もしこの仏教発祥の地であるインドの方が日本の仏教をご覧になったら「これは仏教ではないんじゃないか」とおっしゃるかもしれません。

インドそれから東南アジアを中心として信仰されている上座部仏教では戒律の遵守、それから教程の学習、瞑想の修行こういったことを目的とされています。しかしここ日本の仏教は先祖供養そして普段の生活の中での礼節を敬うこういったことを重視しています。

じゃあ、もし私たちが今まで1500年以上かけて築いてきたこのスタイルこれを「仏教でない」というんだったらどう呼んだらいいんでしょうか?やはりこれはどうしても「日本の仏教」と言うしかないと思います。

日本の仏教は中国それから日本の古来の宗教である神道の影響を受けて日本に相応しい形で洗練されてきました。ですから元々ブッダが始めた原始的な仏教とは実践の方法は違いますけれども、インドにしろ、東南アジアにしろ、ここ日本にしろその根底にあるのはブッダが唱えられた素晴らしい哲学と教義に基づいています。

私は日本とインドのこの仏教の違いというのは実はカレーに似ているんじゃないかなと思っています(笑)。インドではこのように非常にスパイシーで辛いカレーを皆さん召し上がります。

カレーもインドが発祥の地なんですけれどもこのインドの方が日本の私たちがすごく食べ慣れている甘くてまろやかなカレー、皆好きな方沢山いらっしゃると思いますが、あのカレーを召し上がったら「これカレーじゃないじゃないか」とこうおっしゃるかもしれません。

じゃあ私たちが慣れ親しんでいるこのカレー、これを何と呼んだらいいんでしょうか?やはり私たちはこれを「日本のカレー」と言うしかないと思います。確かに調理法・具材は違うかもしれませんが、このルーにお肉やお魚そして野菜を入れて煮込んでご飯ともしくはパンと一緒にいただくこのスタイルはインドでも日本でも共通しています。

私事ですが私は大学時代に農学部におりました。その農学部時代に実はカレーに関するある実験を行ったことがあります。これがどういう実験かというとまず部屋を2つ用意します。

まず一つ目の部屋は日本の夏の気候のようにすごく暑くてしかも湿度が高い高温多湿の部屋を用意します。もう一つの部屋はインドの夏のようにすごく暑いんだけれども、湿度があまりないカラッとした気候の部屋を用意します。

そこに世界中から集まられた留学生も含めて30人の学生さんにしばらくいてもらって、その部屋の中でインドと日本のカレー両方食べ比べてもらいました。そしてどちらが美味しいか判断してもらいました。

すると日本の部屋で食べた学生さんの内30人の内20人以上の方が日本のカレーの方が美味しいという回答がありました。同じこの30人がまた別の日にこのインドのお部屋でカレーを食べた際にはインドのカレーの方が美味しいとおっしゃった学生さんが30人中20人以上いらっしゃいました。

つまり日本の部屋で食べた場合には日本のカレーがそしてインドの部屋で食べた場合にはインドのカレーの方が美味しいという回答が得られたわけです。このように食というのはその土地の気候・風土こういったものに大きく左右されます。

宗教も同じでもちろんこの気候・風土それから歴史・文化・伝統こういった色んな要素でその国に相応しい形に洗練されてまいります。私たちに馴染みのある日本人のこの寛容性のある宗教観、私はこれを世界の皆様とシェアできれば世界の皆様に素晴らしいアイデアを提供できると私は強く信じています。

今から数年前になりますが兵庫県に尼崎という町があります。そこで素晴らしく画期的なFMの番組が始まりました。この番組タイトルはズバリ『8時だヨ!神さま仏さま』といいます(笑)。

元々はこれは『8時だヨ!神仏集合』だったんですけれども(笑)、それはいいとしましてこれがどういう番組かと言いますと毎週水曜日8時から30分の番組なんですけれども、ご覧のようにあるリスナーからのお悩みを神社の神主さん仏教のお坊さんキリスト教の牧師さんこの3名が一緒になって解決するとこういう番組なんです(拍手)。ありがとうございます。

これは非常に画期的で、ある宗教のお坊さんがある特定のものに対して回答する、これはあり得る話だと思うんですけれど、全く違う宗教のお坊さんが3人集まって一つのお悩みを解決していく。これは前代未聞ですし非常に画期的なプログラムです。

リスナーの方にしてみれば一つの固定化された回答だけではなくて世の中には色んな解決方法があるのかということで非常に安心感が得られます。そしてもう一つ今年の2月ですけれども私が提案しましてここ京都でこれまた画期的な素晴らしいイベントを開催いたしました。

それがこれ「宗教者駅伝」です(笑)。この駅伝というのは日本人に非常に馴染みのある競技だと思いますが、実はこの駅伝はここ京都で今から百年前に生み出された競技です。この世界を代表する宗教都市京都、そしてこの駅伝の発祥の地であるここ京都、ここに世界中から色んな宗教の宗教家・お坊さんに集まっていただいて宗教家だけでつなぐ駅伝を開催したんです。

これは宗教対抗ではなくて例えば第一走者は神社の神主さん、第二走者は仏教のお坊さん、第三走者はキリスト教の神父さん、第四走者はイスラム教のイマームという風に宗教をミックスして一つのたすきをつなぐというのを複数のチームを作ってこの駅伝を開催したわけです。

現代では宗教のお互いの理解が必要だということで対話・対談こういったこともよく行われていますけれど、会議室で対談をしてもなかなか発信力がありませんし、この駅伝というのはパッと見て分かりますから、市民の皆さんと一緒に走りますので一体感がある。

そして直接的にメッセージが伝わります。それから走らないといけないので必然的に若い宗教家が活躍できるということです。そしてこれ実は京都だけではなくてヨーロッパのルクセンブルクでも同じコンセプトの駅伝が開催されて、実はこの駅伝を介して宗教の融和を図ろうという動きが今世界に広まりつつあります。

ですからこの混迷を極めた世の中、宗教家自らが自分の身を削って身を挺してそして宗教の融和を図っていく、これは私非常に大事なことだと思っています。さてもし私が今大学時代にお会いしたアイルランドのB&Bの女将さんに再会する機会があれば、私は今だったら堂々と自信を持って言えると思います。

確かに全ての宗教においてその教義に忠実である・守ることこれは非常に大事なことです。しかし世の中にはもっと大切なことがあります。それは信じる宗教が違っていてもお互いを尊重しそして仲良くするということです。

日本では色んな宗教を信じている人がいますが宗教が違うからといって争い・揉め事、こういったことはほとんど起こりません。しかしテレビでニュースを見ますと、世界を見渡しますと一つの宗教を信じるあまり他の宗教の方と争ったり、罵り合ったりそういう場面が散見されます。

しかし、私はそれは本末転倒だと思います。宗教の本質は盲目的に一つのものを信じることではありません。世界には沢山の人がいてそれぞれ皆さん感謝の気持ちを持って安心感を得てそして自分の人生を全うする。

その助けを提供するのがこの宗教の役割です。ですから宗教の本質宗教の役割というのは安心感を与えることです。ここ日本ではこうやって様々な宗教がありますけれどもそれぞれ尊重して皆さん平和に安心感を持って過ごされています。

しかしながらこの世界には色んな地域があります。そして色んな文化・伝統があります。ですからこの安心感を感じる方法は一つじゃなくても良いと思います。色んな方法があっても良いと思います。

私はこの2年ほどで前のローマ法皇にご招待いただいてバチカンに行ったり、この4月にはここ京都でダライ・ラマ猊下にご招待いただいてシンポジウムに参加させていただきましたが、世界の宗教家が実は日本の宗教観に非常に期待されています。
ですから私は是非世界でも冠たる宗教都市ここ京都、ここ京都から日本人の持つ素晴らしいこの寛容性のある宗教観、これを是非世界に伝えたいと思います。そうすれば世界はもっと素晴らしくて素敵な場所になると私は強く信じています。ありがとうございました(拍手)。

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宗教の役目とは何でしょう? 僧侶・松山 大耕が説かんとするのは、特定の宗教の教えではありません。どのような信仰を持つ人であっても敬意を払うことの大切さです。笑いを混ぜながらも示唆に富んだ、この美しいトークでは、世界中の宗教の指導者たちに向かって寛容と平和を重んじるよう訴えつつ、松山副住職が主導する、多様な宗教コミュニティが効果的に共存目指したイニシアティブを紹介します。
 

宗教指導者も注意すること。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 4月11日(火)12時05分3秒
返信・引用
  『権勢を極めた人や裕福な人に弱い 宗教指導者。』

聖書を読み解くと、
イエス様が、
世の中の最も弱い人たちを愛されていたことがよくわかる。
それは、聖書のいたるところで見受けられる。
一方、
ファリサイ派の宗教指導者は、
世の権力者や 富豪に近づいて 取り入っていることがわかる。
あさましい限りにね。
現代においても、
名声のあるメッセンジャーや、
名声を誇る牧師、
社会的地位が高い人、
裕福な人が、来ると、
あからさまに へこへこする教会指導者が なんと多いことか。

聖書に こんな御言葉もある

『権勢によらず、能力によらず、我が霊によるなり。』

牧師の皆さん、教会指導者の皆さん
敬愛する気持ち、信仰の先輩後輩ということは よくわかりますが、
それとは違った、
取り入ろうとする様子が あまりに、あからさまなのです。
これは、いけません。
信徒は、しっかり見ています。
聖書の話とは、全く違うじゃないのと思ってしまいます。

キリスト教はそのレベルなの、
ここだけは、違うと思っていたのにと
感じる人は少なくないと思うはずです。

名声を誇るメッセンジャーが それほど偉いのですか、
名を成した牧師が それほど偉いのですか、
社会的地位や、経済的に飛んでいる人が、 そんなに偉いのですか、

教会では、
信徒も牧師も、特定の人に 一目 置くってのが見受けられますが、、
双方、人を 見ていますよね。
ここでも、あれほど、イエス様が注意したにもかかわらず、
祈りの部屋であり、キリストの体と 言われる主の教会で、
それを見るとは思いませんでした。
人間とは、
つくづく、弱いものだと思います。
人間の本質が たとえ、宗教指導者とて でてしまうものです。

私も、それらのことを自らも注意しようと思いました。

差別の温床は いたるところにあります。

いろいろなものを『神』としている時もあります。

用心、用心。





 

品行方正が、良いクリスチャンではない。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 4月11日(火)10時52分14秒
返信・引用 編集済
  『品行方正が、良いクリスチャンではない。』

私は、時に強く思うことがある。
それは、クリスチャンへの批判ととられるかもしれないが、
クリスチャンは、
イエス様の似姿を良しとし、追及するあまり。
品行方正の方が多いが、
その語る言葉には、何も伝わってこない時がある。
確かに、語っていることは、聖書の言葉をつらつら並べて、
理路整然と、語られるが、そこに、心を感じない。
信仰を長く維持しると、そのことを本人は意識していないのか、
型通りのこと、形式的なことに終始し、
まるでマニュアルを読まれているようだ。
これは、全てのクリスチャンというわけではないが、
たいていは、その落とし穴にはまるようだ。
例えば、
成功例の話からは、心に響くことはないが、
失敗例からは、たくさんのものを 感じられる、学べる、
品行方正にあろうとするあまり、
全身に鎧を着ているようにも見える。
もっと、自然体で、本音を語る時もあっていいような気もする。
教会は、牧師は、
積極的、肯定的な言葉を 期待していることはよくわかる
しかし、
度を過ぎると、真実を偽りで、覆い隠そうとすることにもつながる。
偽善の始まりでもある。
教会と、牧師が、偽善的なことを奨励することにもつながる。
こういった、リスクもあるから、
真実を語れる、環境も必要だ。
教会には、いろいろな人が来る、
波風のないという クリスチャンは多分いないと思う、
そんな時、
それを包み隠さず語れる環境も必要だし、
いつも、積極的、肯定的に、受け止められる人はいないと思う。
だから、
弱さのある人は、弱さのあるままに、
来れるような教会であってほしい。
教会では、弱さを見せられないし、
この心身の ぶざまを知られたくない
などと 信徒が思うなら、
その教会と、牧師の存在は、
無きに等しい。

ありのままの姿でいい。
こうした教会が増えることを切に願う。
イエス.キリストを復活させた神の大いなる力を信じる
神の愛を 信じる
その信仰によって それがなしえることを信じる。
 

韓国教会の問題点

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 4月10日(月)00時23分31秒
返信・引用 編集済
  『韓国系の教会に日本の教会は、感化されてはいないだろうか。』

私は、正直に言うと、全ての韓国系の教会というわけではないが、
韓国系の教会には、良い印象はない。
何ゆえかと言えば、
韓国の熱すぎる民族性のまま、
キリスト教を日本で、伝道しているからだ。
そして、
形態的に、資金集めを組織化した
大型の教会で実行していることにもある。
また、ある日本の牧師が言うことには、
韓国には、イエス.キリストは 7人から8人いるそうだ。
要するに、偽キリストを生み出す、素錠があるからだ。
また、
日本には、日本人に適した、伝道の方法もある
日本の文化、日本人気質をしりつくした、日本人の牧師がいる。
また、
日本と韓国には、慰安婦問題や、竹島の問題があるが、
それを教会で、韓国よりの発言をしたり、
日本人に、すさまじい自虐的思考を植えこむからだ。
他の国の宣教師も日本で、活動しているが、韓国系だけは、弾いてしまう。
熱狂的な信仰を用いて、正常な思考すらも、奪い取っていくから、
これはおかしいと気づく人もいない、それが大きな問題で、
カルト的な思考も、持ち込んでくるから、要注意だと思う。
ついでに言いますと、
それくらい熱心な進行であるならば、
日本の過去の過ちを、いつまで問うというのであろうか、
キリスト教徒は、本来は、赦しの信仰と思うのだが
それすらもできない、
韓国のキリスト教に 学ぶ 必要はないと思う。
日本の伝道は、日本の教会と、日本人牧師が、担うのが、良い。
 

ガーデン

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 4月 3日(月)14時41分2秒
返信・引用
  『NHKの趣味の園芸にて。』

数日前、NHKの趣味の園芸で、
「雄勝花物語」というのが放送されてました。
津波の被害で、家族や家を失った方が、
流された、家の跡地に、色とりどりのお花を植えて、
地域の方を励まそうと、ガーデンを作られた話でした。
ボランティアも加わって、その地域の大きなガーデンとなり、
観光客も来たり、地域の交流の場ともなっていました。
そこは、かさ上げ工事のために、近く移転となりますが、
すぐ近くに、新たに、ガーデンをまた、造るそうで、
皆さん 頑張っておられましたよ。
ほんとに、花を媒介に地域の癒しと交流の場になるそうです。
また、今度は、ガーデニングをしながら
コーヒーや、紅茶、ハーブティーなども
飲めるようにするようです。
花って、ほんと いいですね。
 

うどん。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 4月 3日(月)11時48分19秒
返信・引用 編集済
  『今、はまっています。』

沖縄本島の大謝名という58号線付近に、
「丸亀製麺という、うどん屋」があるのですが、
安くて、おいしい、今、ここによく来ています。
天ぷら各種もあって、これもうまい。
親子どんぶりもあって、これもうまい。
貧乏縄手らは、何かあると、ここを使っています。
 

人生の究極の目的

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 4月 2日(日)18時45分50秒
返信・引用
  『あなたの若い日に、あなたの創造者覚えよ。災いの来ないうちに、また 「何の喜びもない。」という年月が近づく前に。』

                      聖書 伝道の書 12:1

人生の究極の目的である、「神を知ること」「神に栄光を帰すこと」、
これを知らずして、歳を重ねることは、
なんと 虚しいことか。

「理屈を超えた力強い信仰」によって、
神の御前に近づこうと思う。

人生の究極の目的に裏付けされない人生は、実に虚しい。

かの オリンピックのメダリストの カールルイス氏は、
こう言ったそうです。
*メダルを取ることよりも、大切なことがある*
それは、「神を信じ、人生の勝利者となること」だと、


私は、初老と言われる年に近づくたびに、
改めて このことを思うようになった。
たとえ、勝利者にならずとも、
人生の究極の目的だけは、追い続けよとね。

ある牧師が言っていた、
コップにジュースをを入れたとして、
たとえ、量は少なくとも、中身の濃い状態でありたいと…
ほんとにそうだなと思う。
コップの大きさは、各自みな違うが、その濃いさでは負けたくない。
良い言葉だと思ったし、良い表現だと思った。
それから、
その牧師はこうも言っていた。
「出る釘はうたれる」とね、
この牧師は、
たとえ 教会であっても、
牧師であっても、
なにか間違っていると思ったり、
おかしいなと感じれば、
臆せずに、果敢に、意見を 述べられる方なので、
それゆえに、風当たりも強いのですけども、
神を背に
しっかり述べられるのです。
私は、教会や、牧師が、
相互の かばいあいを する中にあって、
このような牧師は、貴重な存在です。
牧師の皆さん、この牧師のように、あえて火中のクリを拾えるようであってと望みます、
たとえ、
損な立場になろうとも、
神を背にして 語るものとなってくださいね。
事なかれ主義に 陥らないでくださいね。
それを 神も、信徒も見ています。
そして、私どもは、励ましも、受けます。
ちなみに、
出る釘は打たれるなら、
釘をさかさまにすればいいと、語っておられました。



 

教会のカルト化はこうして始まる。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 3月26日(日)05時53分55秒
返信・引用
  『正しいと言われる教会もカルトに陥る危険性を常にはらむ。』

これは、私の個人の意見です。

あなたが、もし牧師であったなら、

先生と慕ってくれる信徒と、そうでない信徒がいたとしたら、

どちらに親近感を抱くでしょうか?

当然、 先生と呼んでくれる方だと思います

そして、それが人間の当然の感覚だと思います。

しかし、

教会では、あってはならない感覚なのです。

先生と呼ばれるうちに、牧師はいつの間にか、無意識に、

自分は、他と違う存在だと考えだします。

人間は、必ず、その思いに縛られてしまうのです、

だからこそ、プロテスタントでは、

あえて万人祭司にしたり

信徒と、牧師の地位は、同じであると、決めたのです。

私個人は、

牧師を先生と呼ばないように、あえてしています。

それは、牧師という呼び名の中に、

「師」すなわちラビ(先生)という意味があるからです。

それで十分だと思っています。

信徒の中には、牧師を尊敬しているからですとか、

だって、教えてくれている先生だものとか、言われる人がおりますよね、

しかし、牧師も神ではありませんから、

そう言われ続けているうちに、

いつしか 己に栄光を帰すようになるのです。

そして、

信徒も、先生、先生といううちに、牧師を神格化してしまうのです。

例えば、

教会につながるべき信徒が、牧師を神格化するあまり、

その牧師が他教会に赴任すれば、

共についていく信徒がおりますが、

これを 良き師弟愛と感じてしまう怖さがあります。

牧師も、自らが 高慢になる傾向があります。

己の思い通りにしようとする傾向が出てまいります。

そして、教会自体が、変貌していくのです。

主の栄光を我がものとし、

教会では、神の栄光をお返ししますと言いながら、

自分を述べ伝え、栄光を奪い取っていくのです。

教会のカルト化は、そんなところから始まるのです。

だからこそ、

私たち信徒も、牧師もお互いに、注意せねばなりませんよね。
 

主の栄光を我がものとするとき

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 3月25日(土)19時36分8秒
返信・引用
  「するとたちまち、主の使が彼を打った。神に栄光を帰することをしなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えてしまった。」

             聖書 使徒12:23



ヘロデ王は人々の賞賛の声に得意満面だったでしょう。彼は神様の恵みと哀れみを忘れて自分を誇ったのです。しかし、そのとき、虫にかまれて一瞬にして死んでしまいました。神様が彼を打たれたのです。自分を神にするとき、人は肉体的にも、霊的にも死んだものとなります。全てのことが神様のみわざであり、恵みであることを認めて、感謝・讃美を主に奉げましょう。
 

中古のノート型パソコンほしいな。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 3月24日(金)22時43分18秒
返信・引用
  『中古パソコン屋さんにて。』

先日、通いなれたところに、中古パソコン屋さんを見つけた。
買わないけれど、立ち寄らせてもらった。
店主の方は、とても親切な方で、いろいろ教えていただいた。
知らないことがたくさんあって、とても楽しかった。
店の中には、私が今、とてもほしいと思っている
ノート型のパソコンがあった。
3万5千円のもので、
程度もよく、ウィンドウズ10タイプの物でした。
ほんとは、今すぐにでも、ほしかったけど、
なんせ、貧乏ときているので、我慢、我慢だった。
また、年末に、車検があるので、
お金を用意しなければならないからです。
うーーーーん、現実は、厳しいな。
そうそう、そのノートパソコンは、
ウィンドウズ10そのものの
ソフトしか入っていないとも言われた。
プロジェクター用のポインターも、入っていないらしい、
でも、それでも、数年落ちの良品でした。
何でも、会社で使われてあったそうな。
 

行ってはいけないカルト教会とは。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 3月23日(木)19時37分9秒
返信・引用
  ヤフーの知恵袋にこんなのがありました。
賛否あるかもしれませんが、掲載しました。
参考になれば、幸いです。

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★『行ってはいけないカルト教会の特徴』★

ライター:breath_of_blessingさん


近年、通常のキリスト教会がカルト化傾向にあります。聖書を知らない人ほど惑わされてしまいますので、教会に行く前に自分でまず聖書を読むことをおすすめします。

聖書は信仰を持って「神様が自分(読者)に語りかけてくれている」と思って読むならば、神様自身が導きを与えて下さり、「聖書の本質(神の愛や信仰)」に関しては、誰からも教わらなくても分かるようになっています。

「牧師に教わらないと分からない」「信徒では理解できない」とは思わないでください。

また「大きい教会(たくさんの人が集う教会)ほど安心」というのは、間違いです。実際は、大きい教会ほど聖書から離れている傾向があります(カトリック教会やプロテスタント内リベラル派・エキュメニカル派)。

聖書の教えよりも人々(罪びと)が好むような「世的な教え」をした方が、じつは人はたくさん集まるものです。

以下に、カルト教会、あるいはカルト化傾向にある教会の特徴を挙げておきます。

<教えに関して>

①聖書以外のテキストを頻繁に使う

②有名な(大きな教会の)海外の牧師・説教者・リバイバリストなどの教えをそのまま信奉する(やたら「○○先生がおっしゃっている」などと言って、聖書よりも有名説教者に従わせようとする)

③聖書を均等に学ばずに、同じ箇所ばかり強調する

④セカンドチャンス(死後にも救いの可能性がある、という非聖書的教え)を認める

⑤チョー・ヨンギ(自己実現・成功哲学・肯定思考)、リック・ウォレン(キリスト教にイスラム教を混合させた教え、エキュメニズム、マーケティングによる教会形成)、ベニー・ヒン(拝金主義、偽預言者)、ピーター・ワグナー(自称「使徒」・権威主義)、リック・ジョイナー(偽預言)、シンディ・ジェイコブス(偽預言)が好き

⑥解釈が曖昧な(明確にされていない)聖句に対し、「この聖書箇所は、実はこういう意味です」と説明して、新種の教えを作り出す

<牧師の態度>
①牧師の権威が強い(「神様に従うことは、牧師に従うこと」とそれらしい事を言って、隷属させようとする。牧師に従わないと「神に反逆している、悪魔にやられている、地獄に落ちる」などと脅す。)

②「裁いてはいけません、赦しましょう」と言って、牧師の間違いを指摘することを封じる

③「弟子訓練」と言って、キリストの弟子ではなく、牧師に従順な信徒作りをしている

④ほかの教会・集会に参加したり、自分の教会(堂)以外のところで信徒同士が合う事を嫌う(牧師・指導者による信徒管理・支配体制)

⑤やたら大声で説教するなど、威圧的な口調

<教会の方向性、信者の雰囲気>

①初めのうちは牧師・教会員みんなで大歓迎する(ラブ・シャワー攻撃:その教会に依存する性質を持たせるため)

②「教会成長」「ビジョン」「勝利(勝ち取る)」「打ち破り」「示された」「祝福」「権威」「霊的」「戦う」「油注ぎ」「変革」「解放」という言葉を好む
③「セル・グループ」という名の信徒管理システム(特に、セルで牧師の教え以外を語ってはいけない、という場合)の導入
④病気になったりすると「信仰が足りない」と責める、病院に行かせず信仰(祈り)で直せ、と勧める

⑤牧師の前や信者の前で、罪の具体的な悔い改め告白をさせ、恥をかかせてその人の精神を追い込む

⑥否定的な言葉を一切言ってはいけない、いつも肯定的な言葉だけ告白しなさいと言う(「信仰の言葉(ワード・フェイス)」と呼ばれる、この世の肯定思考・自己実現主義)

⑦聖書よりも「病の癒し」「奇跡」「不思議な現象」「個人的体験談(霊的直感)」「流行の教え」に心を注いでいる

⑧断食や長時間の祈りなど、自分の信仰深さ(熱心さ)を自慢げにしている

⑨自分の教会こそ、優れた教会だと思っている

⑩牧師のご機嫌を取る、取り巻き連中(イエスマン)がいる

⑪ユダヤ教(旧約聖書)の祭りなどを実際に行う

⑫やたらと禁止事項が多い(情報統制)

⑬何かと「悪魔・悪霊の仕業」と結論づける

⑭自らの高揚感や興奮を求めている

⑮終末の危機感をあおる

<献金や奉仕>
①十分の一献金の強要、集会参加の義務化

②教会に献金をたくさんすると、捧げた人は(特に経済的に)祝福されるので、できるかぎり多く献金するように強く勧める(「繁栄の神学」というご利益信仰)

③たくさん献金をしている信徒をチヤホヤする
④教会内の奉仕をたくさんさせる(疲れさせて、正常な判断力を鈍らせる)

⑤教会会計(献金の使われ方)の報告をあまりしなかったり、内訳が大雑把だったりする

*直接その教会に「安全な教会ですか」などと聞いても、みな「うちは正統派で安全です」というに決まっていますので、ネットなどで悪い噂がないかどうか、かならず確認してください。

*ちなみに、「地域教会に所属していなければ救われない」という教えは聖書にありません。聖書に書いてあるとおりのキリストを信じることによって、人は(目には見えない本当の意味での)教会の一部となるのです。


 

理想の教会?

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 3月20日(月)05時51分8秒
返信・引用
  『理想の教会など存在しないということ。』

私は、時々思うことがある、
それは、皆さんが心から、満足する教会などないということだ。
人が不完全であるように、
人が集うその教会も不完全でしかないということだ。
もし、完全な教会があったとても、
あなたが来れば、そこは不完全な教会になると、
著名な牧師が言っておられたが、それは、的を得ている、
しかし、
反面、もし完全な教会があったとしても、
あなたという牧師が、牧会すれば、
そこは、不完全な教会になることも事実だ。

神の国とは、そこかしこにあるものではなく、
一人一人の、心の中に存在するとあるように、
理想の教会も、
それぞれの方たちの、心の中に存在するのだと思う。
そして、
牧師も、信徒も、人は不完全であるからと、口癖のように言って、
それで、済まされる問題でもない。
各人、そのことを胸に収め、
理想であったとしても、その理想を追求するときに、
理想の教会に、近い教会となり、
理想に近い信徒や牧師になるのだと思う。

現実、理想的な教会など、存在はしないが、
皆が 心の中で、理想の教会を持つことだと思う。
初めから、完全を、理想を、求めるのではなく、
作り上げていくという工程が必要だと思った。
牧師にとって、信徒にとって、何が理想かは知る余地もないが、
ただ、それを求めるときに、
理想の教会なるものが、見えてきそうだ、
そのことを思った。

ただし、現実は、そうはいっても
各人に、フィットする教会はいろいろと違う、
だから、
ある程度、自分の感性に合うところに
落ち着くことが、求められるであろうと思う。
 

日々の御言葉

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 3月16日(木)21時48分20秒
返信・引用
  「人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい。」

       聖書 エペソ6:7


イエス様の命を代価にあがなわれた私達は、イエス様に仕えるものとなったのです。しかし、それは奴隷としてではなく、愛のゆえに自らを主にささげてしもべとなったのであって、イエス様がそれを強制しておられるのではありません。ただ、主の限りない愛を知るとき、何一つ報いるすべのない私達はこの身をささげるほかありません。今生きているのは誰のためでもなく、主のために日々のわざを励むのです。なんと大きな恵みでしょうか。
 

日々の聖句

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 3月12日(日)22時26分34秒
返信・引用
  「わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。」

            聖書 エペソ1:5


私たちがイエス様を信じて救われたのは、努力や熱心な研究などによったのではありません。私たちが救われるようにと、神様が一方的に選び、御旨にかなったこととして、愛のゆえになされた救いです。ゆえに、私達はただ与えられた恵みを感謝する以外にありません。ただ、警戒すべきは恵みに慣れて感謝を忘れることです。
 

日々の聖句

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 3月10日(金)11時04分8秒
返信・引用
  「主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。」

         聖書 ミカ6:8b


神様が私たちに求めておられることはただこれだけです。神様の義を求め、主のご愛に満たされ、罪赦された者としてへりくだり、よみがえりの主と共に生きることです。それは私たちの幸いであり、平安と喜びです。物質的な豊かさ、平穏無事であることも幸いですが、それらは時と共に変化し、消えうせていきます。「神と共に歩む」こと、これに勝るものはありません。
 

良い時も 悪い時も。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 3月 6日(月)20時44分55秒
返信・引用
  『良い時も、悪い時も神からのもの。』

世には、いろいろ神と称するものがありますが、

御利益信仰なるものは、

自分の益となる対象にだけ信仰を示すものです。

また、たくさんの神の中から、

自分にとって都合のいいものを神としていますよね。

クリスチャンの中にも、

良いことには、神様と言いつつ、

悪いことが起こると、

すぐに それを サタンのせいにする人がいます。

聖書のヨブ記には、

良いことも 神からくるのであるから、

悪いことも神からのものとして、受け取るべきだとあります。

神様は、

良いことにも、悪いことにも働いておられるものです。

だから、

全てのことを神からのものとして受け取る必要がります。

神様は、其の後、全てを益とされます。

今わからなくとも、それが後でわかるようになります。

決して、いい時だけの神様に しないでくださいね。(*^-^*)
 

信仰短言

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 3月 5日(日)19時57分51秒
返信・引用
  【信仰短言】 沖縄県 那覇バプテスト教会

『主にするように!』

「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」

     コロサイ 3:23


今日の聖書の箇所は

夫婦関係、親子関係、主人と奴隷との関係、という

三つの関係のあり方を帰しています。

特に信仰者として

どのように他者との関係を持つべきかは大切なことです。

人間の問題や悩みの9割は、対人関係であるといわれます。

私たちも対人関係が正しく問題なくなされているならば、

恐らくほとんどの悩みは、解決しているのではないでしょうか。

大切なことは、23節の御言葉です。

「人に対してではなく、主に対してするように」

という姿勢は、クリスチャンの対人関係の原則です。

3組の関係で共通することは、「従うこと」です。

まず、私たちは神様に従うことが大切です。

そして

その結果、

目の前にいる人に、従うということもできるのです。

それは いやいやながらとか、形式的な従順ではなく、

「心から」のものとなります。

まず、神様に対する正しい姿勢を学び、

そこから正しい対人関係を得させていただきましょう。



 

日々の御言葉

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 3月 3日(金)20時54分29秒
返信・引用
  「するとペテロは、みんなの前でそれを打ち消して言った、『あなたが何を言っているのか、わからない』。」

             聖書 マタイ26:70
ペテロは大祭司カヤパのもとで取調べをうける主を見守っていました。彼はイエス様の仲間だと言われて、即座に否定しました。自分の身の危険を恐れたからです。私たちも、イエス様の仲間であることを言えない、拒んでしまう弱さがあります。しかし、ペテロはやがて聖霊に満たされたとき、力を受け、大胆に主をあかしする者となりました。弱い私たちが強くなるには聖霊による以外ありません。
 

ギターの練習 始めております。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 2月22日(水)20時36分50秒
返信・引用
  『神様に賛美をささげるぞ、なんてね。』

賛美をささげるため、ギターの特訓をしています。
やはり、なかなか難しいです。
特訓をしてますと、スチール弦が手の指に食い込むものですから、
指先は、固くなりました。
とりあえず

主の名を賛美せよ♪
このままの姿で♪
キリストにはかえられません♪
心に感謝を持ちながら♪
明日を守られるイエス様♪
平和初めて知った♪
私の願い♪
我が御主よ♪
栄光ある主の御名♪
いつくしみ深き♪
いと高きところに栄光が♪
恵みによるのです♪

などを、なんとか 弾けるようになりました。
私的に、編曲したようになりましたが、
というのも、リズムが、フォーク調しかできませんので、
オリジナル風の演奏となりました。
完成度も、低いですが、
主に捧げるのですから、その気持ちがあれば、いいと思っています。

ギターの練習をしてみて、思ったこと、楽器やコーラスなどを駆使すると、
なんか、信仰も、違った感覚になりますし、
聖書の通読、祈り、などの勉強会だけで
教会に行くときより、ぐっと楽しくなりますね。

もっと、早くやればよかった。
でも、やり始めたときが 主の時なんよね。
神様って、どんな風に、用いられるかわからないよね。
私の、隠された、特技にしたいです。
賜物かな。。。。。
高校時代に フォークが好きだったことが、
ギターの練習に導いてくれたんだものね。
下手ですが、声もよくないけど、
下手は 下手なりに、頑張っております。(*^-^*)ははは
 

今日は。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 2月21日(火)15時12分12秒
返信・引用
  今日は、いい天気なので、主夫やっております。
アパートのベランダをはわいたり、
洗濯物を干したり、
部屋にクリーナーをかけたりと大忙しです。
明後日、仕事が忙しいので、今日やっておかなければなりません。
妻は、仕事に行っているので、今、一人寂しく掃除しています。
もちろん、妻もしてくれますが、
できるとき、できる人がするのが 我が家のルールです。
意外と、こんなのが好きなんで、苦痛は感じませんし、
男のプライドなんか、とっくに捨てていますから、へっちゃらです。
終わったら、コーヒーとパンでも、いただこうと考えています。
今、ベランダにいるのですが、
ほんと、ポカポカ陽気で、気持ちいいくらいです。
気温は、23度くらいかな。。。。
今日の沖縄は、車の中だと、暑いくらいです。
外を歩いている人を見ても、
やや薄着とか、半そで姿の人もちらほらいてますよ。
でも、全国的に見ても、春一番も吹いたところがあるようですね。
もうすぐ、春の到来でしょう。
時には、
あくせくしないで、ゆっくりした時間の中に、身を任せましょう。
それから、
眉間にしわを寄せている人も、あえて、おバカをしてみたらいいよ。
心に、余裕を持てますよ。
そして頑張る時には、頑張って、
休む時には、休まないと、身が持たないからね。(*^-^*)



 

信仰とは

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 2月18日(土)09時34分9秒
返信・引用
  『信仰の考察。』

人間というものは、
現在 心地よい 恵まれた 生き方をしている時
過去にどんな苦労があったとしても
そんな過去があるから、今の自分があるなどと、
肯定的に、考えられるものである。
しかし
現在、不幸にある時、試練を受けている時、
逆に 昔はよかったなどと 言いはじめる困った生き物である。
要は、
幸、不幸を 今現在、己が受容できるかできないかにあるような気がする。
幸せの中にある時、不幸の時、いづれにしても、
好意的に捉えられるか、とらえられないかが、
その人の 精神状態を 良くも悪くもするものだ。
願わくば、
どんなことがあろうとも、全てのことを肯定的に受け取れるようにすれば、
人間的な思いによる悩みというものは、
全てとは言わないまでも、ほぼ皆無となる。
すなわち、
いつ いかなることがあったとしても、
精神的に 平安な心でいられるということとなる。
それを 扶助するのが、信仰ではなかろうか。
人は、聖書の御言葉で、救われることが多いのも、そのためと思う。
また、
信仰がなかった頃なら、
立ち向かうことすらできなかった諸問題にも
立ち向かう力を与えてくれるのも、聖書の御言葉の力だと思う。
試練すら、自分にとっての益と考えられるようにしてくれるのも信仰の力だと思う。
私は、全能の神の働きを無視しているのではない、
神は、私たちの知らないところで、働いてくださっている。
そのことを踏まえたうえで、
人間的考察を行っているのである。
世の荒波に立ち向かうことは、至難の業である、
その中で、
精神的に、追い込まれることが多々あるが、
己を、それに打ち勝つレベルに引き上げてくれたり、
その支えとなってくれるのが、信仰ではなかろうか。
ふと、そのようなことを考えた今日の朝である。
 

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