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行ってはいけないカルト教会

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 5月20日(日)17時34分4秒
返信・引用
  【行ってはいけないカルト教会の特徴 】

知恵ノート 聖書 キリスト教 カルト 教会

近年、通常のキリスト教会がカルト化傾向にあります。聖書を知らない人ほど惑わされてしまいますので、教会に行く前に自分でまず聖書を読むことをおすすめします。



聖書は信仰を持って「神様が自分(読者)に語りかけてくれている」と思って読むならば、神様自身が導きを与えて下さり、「聖書の本質(神の愛や信仰)」に関しては、誰からも教わらなくても分かるようになっています。

「牧師に教わらないと分からない」「信徒では理解できない」とは思わないでください。



また「大きい教会(たくさんの人が集う教会)ほど安心」というのは、間違いです。実際は、大きい教会ほど聖書から離れている傾向があります(カトリック教会やプロテスタント内リベラル派・エキュメニカル派)。

聖書の教えよりも人々(罪びと)が好むような「世的な教え」をした方が、じつは人はたくさん集まるものです。



以下に、カルト教会、あるいはカルト化傾向にある教会の特徴を挙げておきます。該当する項目が多いほど危険と判断してください。



<教えに関して>

①聖書以外のテキストを頻繁に使う

②有名な(大きな教会の)海外の牧師・説教者・リバイバリストなどの教えをそのまま信奉する(やたら「○○先生がおっしゃっている」などと言って、聖書よりも有名説教者に従わせようとする)

③聖書を均等に学ばずに、同じ箇所ばかり強調する

④セカンドチャンス(死後にも救いの可能性がある、という非聖書的教え)を認める

⑤チョー・ヨンギ(自己実現・成功哲学・肯定思考)、リック・ウォレン(キリスト教にイスラム教を混合させた教え、エキュメニズム、マーケティングによる教会形成)、ベニー・ヒン(拝金主義、偽預言者)、ピーター・ワグナー(自称「使徒」・権威主義)、リック・ジョイナー(偽預言)、シンディ・ジェイコブス(偽預言)、ビル・ジョンソン(自称「使徒」、ニューエイジ思想、繁栄の神学)が好き

⑥解釈が曖昧な(明確にされていない)聖句に対し、「この聖書箇所は、実はこういう意味です」と説明して、新種の教えを作り出す



<牧師の態度>
①牧師の権威が強い(「神様に従うことは、牧師に従うこと」とそれらしい事を言って、隷属させようとする。牧師に従わないと「神に反逆している、悪魔にやられている、地獄に落ちる」などと脅す。)

②「裁いてはいけません、赦しましょう」と言って、牧師の間違いを指摘することを封じる

③「弟子訓練」と言って、キリストの弟子ではなく、牧師に従順な信徒作りをしている

④ほかの教会・集会に参加したり、自分の教会(堂)以外のところで信徒同士が合う事を嫌う(牧師・指導者による信徒管理・支配体制)

⑤やたら大声で説教するなど、威圧的な口調



<教会の方向性、信者の雰囲気>

①初めのうちは牧師・教会員みんなで大歓迎する(ラブ・シャワー攻撃:その教会に依存する性質を持たせるため)

②「教会成長」「ビジョン」「勝利(勝ち取る)」「打ち破り」「示された」「祝福」「権威」「霊的」「戦う」「油注ぎ」「変革」「解放」という言葉を好む
③「セル・グループ」という名の信徒管理システム(特に、セルで牧師の教え以外を語ってはいけない、という場合)の導入
④病気になったりすると「信仰が足りない」と責める、病院に行かせず信仰(祈り)で直せ、と勧める

⑤牧師の前や信者の前で、罪の具体的な悔い改め告白をさせ、恥をかかせてその人の精神を追い込む

⑥否定的な言葉を一切言ってはいけない、いつも肯定的な言葉だけ告白しなさいと言う(「信仰の言葉(ワード・フェイス)」と呼ばれる、この世の肯定思考・自己実現主義)

⑦聖書よりも「病の癒し」「奇跡」「不思議な現象」「個人的体験談(霊的直感)」「流行の教え」に心を注いでいる

⑧断食や長時間の祈りなど、自分の信仰深さ(熱心さ)を自慢げにしている

⑨自分の教会こそ、優れた教会だと思っている

⑩牧師のご機嫌を取る、取り巻き連中(イエスマン)がいる

⑪ユダヤ教(旧約聖書)の祭りなどを実際に行う

⑫やたらと禁止事項が多い(情報統制)

⑬何かと「悪魔・悪霊の仕業」と結論づける

⑭自らの高揚感や興奮を求めている

⑮終末の危機感をあおる

<献金や奉仕>
①十分の一献金の強要、集会参加の義務化

②教会に献金をたくさんすると、捧げた人は(特に経済的に)祝福されるので、できるかぎり多く献金するように強く勧める(「繁栄の神学」というご利益信仰)

③たくさん献金をしている信徒をチヤホヤする
④教会内の奉仕をたくさんさせる(疲れさせて、正常な判断力を鈍らせる)

⑤教会会計(献金の使われ方)の報告をあまりしなかったり、内訳が大雑把だったりする



*直接その教会に「安全な教会ですか」などと聞いても、みな「うちは正統派で安全です」というに決まっていますので、ネットなどで悪い噂がないかどうか、かならず確認してください。

*ちなみに、「地域教会に所属していなければ救われない」という教えは聖書にありません。聖書に書いてあるとおりのキリストを信じることによって、人は(目には見えない本当の意味での)教会の一部となるのです。


 
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 5月20日(日)12時02分47秒
返信・引用
  「わがたましいよ、主をほめよ。わがうちなるすべてのものよ、その聖なるみ名をほめよ。わがたましいよ、主をほめよ。そのすべてのめぐみを心にとめよ。」

              聖書 詩篇103:1-2


神様をほめたたえ、感謝することは私たちの力であり、喜びです。命も健康も、日々の生活も仕事も家族も、どれをとっても神様によらないものはありません。しかし、人は自分勝手に事の良し悪しを決めて、神様を忘れ、感謝なく、不平不満、つぶやき憤りに心奪われて過ごしています。小さなことから大きな事まで、神様のめぐみばかりです。「主よ、感謝します」と叫んでください。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 5月18日(金)09時55分46秒
返信・引用
  「しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」

            聖書 黙示2:4



「喉もと過ぎれば熱さ忘る」と言われるように、何事でも最初の感動や恐怖など、時が過ぎると忘れてしまうものです。それもまた幸いなことでもありますが、忘れてはならないことがあります。殊に、神様のご愛を知り、救われた喜びと感謝は決して忘れてはなりません。花嫁のときの新鮮で初々しい思いを主に対して持ち続けたいものです。焼き冷ましの餅のような、固く、無感動な心を砕いて、喜びを新しくしましょう。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 5月11日(金)22時04分52秒
返信・引用
  「兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、…。」

              聖書 ピリピ3:13



時は川のように流れているといわれます。確かに、とどまることなく進んで行きます。私たちはその流れに持ち運ばれて、繰り返すことの出来ない「時」を生きています。しかし、人は過去を手繰り寄せて、今の時に亡霊の如く呼び戻そうとします。それはまことに無駄・無益なことです。「後のもの」をすっかり忘れて、前に向かって踏み出してください。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 4月30日(月)21時13分24秒
返信・引用 編集済
  「今わたしは心が騒いでいる。わたしはなんと言おうか。父よ、この時からわたしをお救い下さい。しかし、わたしはこのために、この時に至ったのです。」

               聖書 ヨハネ12:27


主は決してスーパーマンではありません。私たちと同じ人となってくださいました。だから、十字架の死を前に心が騒いだと告白しています。しかし、主は果たさなければならない使命がありました。私たちにも一世一代の決断を迫られるときがあります。「このために、この時に」求められることを避けることはできません。神様があなたに求められるとき、覚悟して臨もうではありませんか。
 

人ではなく神を見上げてというけども。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 4月28日(土)14時51分31秒
返信・引用
  『人ではなく 神を見上げて。』


これは、教会でよく耳にする言葉です。
人は不完全なもの、人は欠けた存在、だから、教会内では、信徒のどのような言動に傷つこうが受容しそれらを見るのではなく神を見上げて教会に来なさいと取れますよね、そして、そうでしょう。しかしですよ、はっきり言います。はじめから、神を見上げてくる方などは、いるわけがありません。そもそも、信仰になぜ関心を持ったかと聞くと、一番多いのは、友人知人がキリスト教の信者で、その方が、やさしい方で、心配りのある方だから、その方の通っているところに行ってみたいと思ったのと、こう来ます。このことを教会は、信徒は、ついつい 忘れがちです。神様を見上げるのは、信仰の深まりと共にそうなるのです。教会としては、先ず神ありきと 言いたいでしょうが、現実は、牧師の人柄、信徒の人柄によるものが大きいのです。牧師が、信徒が、しっかり証をしているということなのです。特に、牧師は、教会の顔ともいわれていますよね。だから、教会は、ことあるごとに、信徒同士、気遣いなさいと、互いに愛し合いなさいと、ことあるごとに、諭すべきです。あたかも、教会で躓けば、躓いた信徒が落ち度のあるように、すり替えないことだと思いますよ。また、極論を言いますが、犯罪被害者に 人間は、もともと悪い人は いないのよと言うようなものです。犯罪に合えば、人間恐怖症になるのは、当然のことなのですよ。教会で被害に合われた信徒に、私の教会は楽しいし、そんなことはないですからなどと、言おうものなら、もう、二度とその信徒とは、交わることはありません。被害にあった教会は現に存在し、その行動は、現にあったからです。それを全否定する心無い言葉は、信徒を教会から、離れさせますし、信仰を失わさせてしまいます。だから、要注意です。あなたの教会では、そういうことがなかったかもしれませんが、この信徒の教会では、あったことなのです。それを理解してあげないと逆に神様を悲しませる結果になるのです。人ではなく、神様を見上げてという言葉は、時として、教会の弁護に利用されたり、信徒の弁護に利用されたりして、責任転嫁に利用されるものなのです。教会信徒は、しっかり、そのことを理解すべきです。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 4月23日(月)12時39分45秒
返信・引用
  「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から働きなさい。」

         聖書 コロサイ3:23


これはイエス様の救を受けた者の基本原則です。私たちは主に召された僕です。私たちのすることはすべて主のためにしている事です。生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。日々の生活、家庭でも職場でも、どこにあっても、誰かのためにしているようですが、人のためではなく、主のためにするわざです。だから、それに報いてくださるのは人ではなく、神様です。エジプトへ売られたヨセフを見てください。彼の生涯は神様の手に委ねたものです。
 

アーサーホーランド牧師のメッセージ

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 4月23日(月)11時51分16秒
返信・引用
  アーサーホーランド牧師の記事をシェアーさせていただきました。
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『AN ANSWER IN CONTRADICTION(矛盾の中の答え)』

『矛盾と思える問題の只中に
 あなたを成長させる答えがある』

頭に来ることはあるだろう…
怒り心頭に発して、
こんな気持にした人を
ののしりたくなることだってある。

「互いに愛し合いなさい…」
と魂のロッカーは語るが、
愛し易い人なら愛せるが、
愛しにくい人まで愛せよ…と言われると
「無理だ…」と思ってしまうのは
当り前のことである。

人間は聖人君子ではない。
それは歴史の中で人々がつくりあげた
身勝手な偶像である。

「聖や義」を語られても、
実行するとなると
無理な話になってしまう。

聖人と見なされているマザーテレサは
素晴らしい人と思えても、
同じ年に
スキャンダラスな事故で亡くなった
ダイアナ妃に、
凡人たちの同情と共感が及ぶのも
事実といえよう。

THE BIBLEには、
「人は誰であれ
 みんな罪人なのだ…
 義人などひとりもいない…」
とある。

罪とはあわれみと恵みの源、
すなわち本質からの愛に
背を向けて生きることをいう。
要するに「ぶれ」て、
また「外れ」て生きることなのだ。

JESUSは、
「聖書の教えの中で一番大切なのは
 心と思いと知性と力をもって
 あなたを創造し、生かしてくれている
 大いなる方を愛すること、
 そして同じ様に大切な教えは
 心と思いと知性と力をもって
 自分自身を愛する様に
 あなたの隣人を愛することだ…」
と謳っている。

あなたが誰かを愛する以前から
空気があなたを包んでいる様に…
今迄も、またこれからも、
あなたを愛し続けてくれている
永遠の愛の本質がいることを
忘れない様に…

今日という日が、
人生の矛盾の中にあっても、
大切な答えを
見出せる日となります様に…

『白か黒かは分かり易いが、
 人生の答えは
 灰色と思える矛盾の中で見出せる』

アーサー・ホーランド







 

信仰短言より

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 4月23日(月)09時49分12秒
返信・引用
  「人の子は 失われた人を捜して救うために来たのです。」

         聖書 ルカ 19章10節

主キリストは 「失われた人」を捜して救うために地上に来られた。
失われた人々といわず 失われた人と個人を捜している。
神に選ばれ 教会に来て礼拝に出席して神の家族となったのに
教会を離れている兄弟姉妹がおられる。
主はこれらの兄弟姉妹一人ひとりも覚え 愛し尋ねておられる。

私たちも主にならい
最近 礼拝を休んでいる兄弟姉妹を覚え
声を掛け 電話をかけ 訪問して何とか
ひとりひとり 接触し 共に祈ろう。
隣人を自分のように愛するとは そのことであり
人が友のために命を捨てる
これよりも 大きな愛はないと 主は言われる
愛は犠牲であり 時間と労苦を伴うのである。
愛が冷える終末時代だからこそ
主は 私たちに互いに愛し合いなさいと 語っておられる。
見えない兄弟姉妹の方々に
愛の声をかけ 手を差し伸べよう。

*信仰短言より*
 

徒然なるままに。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 4月22日(日)10時41分32秒
返信・引用 編集済
  『たてまえと本音は信仰の世界でもある。』

皆さん 何かをしてあげた時、
「お礼はいいから」ということを、言うときがありませんか?
しかし、
ほんとにお礼を一言 言わない人がいたら、
失礼な人ねと、感じが悪い人ねと、思うのではないでしょうか、
だからこそ、
お礼は、人と人とのかかわりの中で、大切なのです。
私達 信仰者は、
教会に物を捧げるとき、お金を捧げるとき、
『右手のしていることを左手におしえるな』
『受けるよりは与えるほうが良い』という事を尊重しますよね、
それは、もちろん 聖書的です。
しかしながら、
教会も、牧師も、ある信徒から、捧げものをされた時は、
他の信徒に悟られないように、感謝の意を現すことです。
それは、その信徒の励みにもなります。
世の人でさえも、お礼は要りませんと言っても、
お礼の言葉を言ってくださいます。
教会も、牧師も、捧げものをいただくことに慣れてはいけません。
たとえ、神に対して捧げられたものでも、
感謝の意を捧げた信徒に伝えるべきです。
当然かのごとくに、いただくのは教会にふさわしくありません。
信徒は、そっと、感謝を一言言ってもらうだけで、
捧げて ほんとによかったと思うものなのです。
神に栄光を捧げたと感じるのです。
いや、そんなのは、必要ないと言われる方もおられるかもしませんが、
わたしたち信徒は、完全ではないのです。
どこかに、肉の思いが残っているのです。
そのことを考えて、対応するべきです。
人は、聖書の教えに従いつつも、
世の人と同じように、教会や、牧師に恩知らずと思うのです。
やはり、良い教会、良い牧師と言うのは、
信徒へのそういった配慮を、大切にするものなのです。

賛否ある事は、分かっています。
しかし
私なら、そのように致します。
また、信徒から、そう言った苦言をよく耳にいたします。
だから、
そうならないためにも、
教会と牧師は
もらって当然という意識を払しょくすることです。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 4月15日(日)19時34分29秒
返信・引用
  「モーセは彼らに言った、『しばらく待て。主があなたがたについて、どう仰せになるかを聞こう』。」

          聖書 民数9:8


私たちは案外とせっかちで、すぐにやろうとします。そこには神様のみ心を伺うひますらありません。そのために失敗するのです。神様の祝福にあずかるには御旨を知り、従うことです。それにはまず神様に聞かなければなりません。必要なのは「しばらく待て」です。そして聞くのです。その後、聞いたところに従い、動き始めます。すると、神様はそのわざを祝福してくださいます。
 

道の光

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 4月 7日(土)21時29分5秒
返信・引用
  「主に信頼する者は守られる。」

    聖書 箴言 29:25

神様は今日まで、私共を守り導いてくださいました。
私共が今日あるのは私共自身の力によるのでもなければ、
又偶然によるのでもなくて、
神様の力と守りによるのであります。
もちろん心の目が開かれていませんとこういう事はわかりません。
しかし
信仰によって心の目が開かれると一切の事に深い原因があること
即ち、
神様の働きというものがあることを知るようになります。
これをただ知るだけではなくて、
更に一層深めて、神様にお頼りする心にしなければなりません。
真心からお頼りする者を、神様は必ず守り、
一切の悪と罪と災いより逃れることができるようにしてくださいます。
変わらない信頼の心を保ち続けましょう。

●神に頼るとは神に任せることである。
●神に任せた心には心配がなくなる。
●心配がある間は任せていないのだ。

《お祈り》

天の父なる神様
私共はともすれば、神様に頼りながらもなお、
他のものにも頼ろうとするものでありますが、
心一筋に神様にお頼りする者にしてください。

イエス様の聖名によって祈ります。

アーメン

ーみちの光ー
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 4月 5日(木)22時23分38秒
返信・引用
  「神よ、わが心は定まりました。わが心は定まりました。わたしは歌い、かつほめたたえます。わが魂よ、さめよ。」

              聖書 詩篇108:1

人生には幾度となく決断せねばならないときがあります。日常茶飯なことならばたいして悩むこともありませんが、生きるか死ぬかに係るとき人は迷います。自分にとっては生涯に一度のことです。人に聞き、専門家に意見を求め、ネットで情報を集めても確かな安心はありません。最善は神様の導きを信じて腹を括る(心定める)ことです。まだ結果はわからなくても神様からの平安が心に溢れます。
 

アーサーホーランド牧師のメッセージ。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 3月25日(日)20時54分47秒
返信・引用
  アーサーホーランド牧師の記事をシェアーさせていただきました。
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『THERE IS A WAY』(必ず道は開かれる)

「八方ふさがりの時は天を見上げ、
後は直感で進め」

信じていても裏切られることはある。
また努力しても報われないことがある。
思い通りにならないからといって
八つ当たりしても、仕様がない…

初心に返って
再び仕切り直しすればいい…
七転び八起きである。
倒れたらまた、立ち上がればいい…

ピンチはチャンスであり、
何が起ころうが必ず万事益となる。

魂のロッカーに
「何度まで赦せばいいのですか…」
と問うたペテロにJESUSは
「三度でもなければ七度でもない…
七度の七十倍(すなわち無限に)
赦すことだ…」
と答えられた。

妬みと裏切り、また陰謀によって
群衆の前で二人の犯罪者と共に十字架に
磔(はりつけ)られたJESUSは

「父よ彼らを赦(ゆる)してあげてください…
自分たちが何をしているのか
分からないでいるのです…」
と祈られた…

「わたしが道である…」
と言われJESUSがおられるところには
自由への道が開かれて行く…

また、
「わたしは決っしてあなたを
見捨てたりはしない…」
と言われたJESUSは昨日も今日も
永久(とこしへ)に変わらない方として
今日もあなたの傍(かたわ)らにいて
あなたを導いてくれることを忘れない様に…

『裏切られても、憎むな…
傷つけられても、恨(うら)むな…
只々、天を見上げて祈れ…』

アーサー・ホーランド
 

礼拝後。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 3月25日(日)19時52分12秒
返信・引用
  『神の国の兄弟姉妹に合うために、教会に行っている。』

神を礼拝しに教会に行く。
キリスト者だったら当然なことです
でもね、
大抵の教会は、礼拝終了後に、教会の行事の用でもない限り、
信徒同士がゆったりと話せる時間をとっている教会は稀です。
礼拝後、
牧師に促されて、隣の方と握手をするのがせいぜい関の山でしょう。
こういう 形だけを重んじる傾向にあるのが 昨今の教会の姿勢です。
信徒の中には、人間関係を嫌う人もいますが、
一方で、何かしゃべりたくて、関わりたくて、
一週間に一度の礼拝を楽しみに 来ておられる人もいるのですから、
礼拝が終わると、さよならでは、形式だけのものとなります。
礼拝が終わると、信徒同士の触れ合いの場にして
会話や、交流ができるような自由な、時間をとるべきだと思います。
さながら、サロンのような雰囲気も 取ることが必要かと考えます。
教会は、とかく 礼拝を終えると、
さっと帰宅する人が多いのは、このような教会の希薄さがあるからです。
しかし、
これは、強制でもなく 早く帰りたい方へはそれもどうぞという姿勢を保ちながらです。
私的に、正直に言えば、
教会に来るのは、同じ信仰を持つ方たちと おしゃべりもしたいからです。神様を礼拝するのは第一ですが、そちらも大切に思うからです。
このような時間をとれば
教会に対する見方も飛躍的に変わると思います。
なので
社交の場であってもいいと思うのです。
イエス様も 大いに喜ばれると思いますよ。
また牧師自体も、
サラリーマンのような考え方は、捨て去るべきで、
自分の用があるからと言って、信徒を追い出すような、教会にはしないことです。
信徒は、中には、仕事を休んでまで来ている方がいるのですからね。
一週間に一度のこの時を、有意義に、しかも喜怒哀楽を語れる時間を用意してあげるべきです。
私は、そのように思います。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 3月24日(土)22時29分29秒
返信・引用
  あなた方の会った試練はみな人の知らないものではありません。
神は真実な方ですから、あなたを耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。
むしろ、耐えられるように、試練と共に脱出の道も備えてくださいます。


           聖書 第一コリント 10:13

 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 3月24日(土)14時29分9秒
返信・引用 編集済
  「わが心のくずおれるとき、わたしは地のはてからあなたに呼ばわります。」

           聖書 詩篇61:2


自分の心の状態を見るとき、神様との距離があまりに隔たって近づきがたい思いがします。自分より清く、正しく生きる人々こそ、神様の近くにあると思われて失望しますが、どんなに遠く、地のはてのようであっても、神様を呼び求めなければおれません。神様は哀れみの尽きない方ですから耳を傾けてくださると信じるからです。「心のくずおれる」とき、すがるべき方はただ主のみです。
 

カルト教会の特徴。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 3月20日(火)12時41分18秒
返信・引用
  賛否あるかもしれませんが、このようなことを書いてある方もおられます。

『行ってはいけないカルト教会の特徴』

ライター:breath_of_blessingさん
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近年、通常のキリスト教会がカルト化傾向にあります。聖書を知らない人ほど惑わされてしまいますので、教会に行く前に自分でまず聖書を読むことをおすすめします。

聖書は信仰を持って「神様が自分(読者)に語りかけてくれている」と思って読むならば、神様自身が導きを与えて下さり、「聖書の本質(神の愛や信仰)」に関しては、誰からも教わらなくても分かるようになっています。

「牧師に教わらないと分からない」「信徒では理解できない」とは思わないでください。

また「大きい教会(たくさんの人が集う教会)ほど安心」というのは、間違いです。実際は、大きい教会ほど聖書から離れている傾向があります(カトリック教会やプロテスタント内リベラル派・エキュメニカル派)。

聖書の教えよりも人々(罪びと)が好むような「世的な教え」をした方が、じつは人はたくさん集まるものです。

以下に、カルト教会、あるいはカルト化傾向にある教会の特徴を挙げておきます。

<教えに関して>

①聖書以外のテキストを頻繁に使う

②有名な(大きな教会の)海外の牧師・説教者・リバイバリストなどの教えをそのまま信奉する(やたら「○○先生がおっしゃっている」などと言って、聖書よりも有名説教者に従わせようとする)

③聖書を均等に学ばずに、同じ箇所ばかり強調する

④セカンドチャンス(死後にも救いの可能性がある、という非聖書的教え)を認める

⑤チョー・ヨンギ(自己実現・成功哲学・肯定思考)、リック・ウォレン(キリスト教にイスラム教を混合させた教え、エキュメニズム、マーケティングによる教会形成)、ベニー・ヒン(拝金主義、偽預言者)、ピーター・ワグナー(自称「使徒」・権威主義)、リック・ジョイナー(偽預言)、シンディ・ジェイコブス(偽預言)が好き

⑥解釈が曖昧な(明確にされていない)聖句に対し、「この聖書箇所は、実はこういう意味です」と説明して、新種の教えを作り出す

<牧師の態度>
①牧師の権威が強い(「神様に従うことは、牧師に従うこと」とそれらしい事を言って、隷属させようとする。牧師に従わないと「神に反逆している、悪魔にやられている、地獄に落ちる」などと脅す。)

②「裁いてはいけません、赦しましょう」と言って、牧師の間違いを指摘することを封じる

③「弟子訓練」と言って、キリストの弟子ではなく、牧師に従順な信徒作りをしている

④ほかの教会・集会に参加したり、自分の教会(堂)以外のところで信徒同士が合う事を嫌う(牧師・指導者による信徒管理・支配体制)

⑤やたら大声で説教するなど、威圧的な口調

<教会の方向性、信者の雰囲気>

①初めのうちは牧師・教会員みんなで大歓迎する(ラブ・シャワー攻撃:その教会に依存する性質を持たせるため)

②「教会成長」「ビジョン」「勝利(勝ち取る)」「打ち破り」「示された」「祝福」「権威」「霊的」「戦う」「油注ぎ」「変革」「解放」という言葉を好む
③「セル・グループ」という名の信徒管理システム(特に、セルで牧師の教え以外を語ってはいけない、という場合)の導入
④病気になったりすると「信仰が足りない」と責める、病院に行かせず信仰(祈り)で直せ、と勧める

⑤牧師の前や信者の前で、罪の具体的な悔い改め告白をさせ、恥をかかせてその人の精神を追い込む

⑥否定的な言葉を一切言ってはいけない、いつも肯定的な言葉だけ告白しなさいと言う(「信仰の言葉(ワード・フェイス)」と呼ばれる、この世の肯定思考・自己実現主義)

⑦聖書よりも「病の癒し」「奇跡」「不思議な現象」「個人的体験談(霊的直感)」「流行の教え」に心を注いでいる

⑧断食や長時間の祈りなど、自分の信仰深さ(熱心さ)を自慢げにしている

⑨自分の教会こそ、優れた教会だと思っている

⑩牧師のご機嫌を取る、取り巻き連中(イエスマン)がいる

⑪ユダヤ教(旧約聖書)の祭りなどを実際に行う

⑫やたらと禁止事項が多い(情報統制)

⑬何かと「悪魔・悪霊の仕業」と結論づける

⑭自らの高揚感や興奮を求めている

⑮終末の危機感をあおる

<献金や奉仕>
①十分の一献金の強要、集会参加の義務化

②教会に献金をたくさんすると、捧げた人は(特に経済的に)祝福されるので、できるかぎり多く献金するように強く勧める(「繁栄の神学」というご利益信仰)

③たくさん献金をしている信徒をチヤホヤする
④教会内の奉仕をたくさんさせる(疲れさせて、正常な判断力を鈍らせる)

⑤教会会計(献金の使われ方)の報告をあまりしなかったり、内訳が大雑把だったりする

*直接その教会に「安全な教会ですか」などと聞いても、みな「うちは正統派で安全です」というに決まっていますので、ネットなどで悪い噂がないかどうか、かならず確認してください。

*ちなみに、「地域教会に所属していなければ救われない」という教えは聖書にありません。聖書に書いてあるとおりのキリストを信じることによって、人は(目には見えない本当の意味での)教会の一部となるのです。




 

ふと思ったこと。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 3月20日(火)10時24分30秒
返信・引用
  私達、キリスト者は唯一神を仰いでいるために、とかく他の信仰を厳しく裁きたがるし、そこに私共の信仰を据えようとしますよね。これは、伝道とか、救いの業とか言って、正当化しますが、よくよく考えてみると、自分うちの家風を他の家に、押し付けているようにも見えたりも致します。イスラム教にもそれは言えますよね。自らは、布教しておきながら、他の信仰が入ってくることを禁止したり制限をかけますよね。とにかく、自己の信仰で、他の人を救いたいって言ってもですよ、他の人は、他の信仰をもって救われていると思っている完結された人なので、私達の神だけが、唯一です、救いはそこからしかありませんと言われても、他の人の立場になれば、何を馬鹿げたことを言っているのだろうとしか思いませんよね。私達は、私達の救いがあるのよと言われれば、それまでです。信仰と信仰のぶつかり合いは、悪くすると、戦争にまで発展しますから、信仰とは、考えると、罪な一面もあるんだなと考えます。また、信仰を世の権力と結び付けようとする人たちもいますが、権力と癒着した時、信仰は、その姿を一変いたします。過去の経過が、それを端的に示しています。神の国は、信仰者同士の中でしか構築できないものだとよくわかりますし、世の権力によって、成しえようとするのは、結局 失敗に終わるのです。ふとね、 そのようなことを考えました。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 3月20日(火)09時49分8秒
返信・引用
  「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい。」

         聖書 ヨハネ8:7


イエス様が姦淫の現場で捕らえられた女を糾弾する人に答えて言われた言葉です。自分の罪を棚に上げて、他人のことをあれこれ言うほどおかしなことはありません。「他人の振り見て、わがふり直せ」と世間でも言います。まず自ら同じ事をしていないかを吟味すべきです。主が絶えず問われるのは、他人はどうであれ、あなたはどうか、ということです。自分を省みようとしない人が正義を振り回すのです。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 3月14日(水)14時34分12秒
返信・引用
  「見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。ただ、あなたがたの不義があなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。」

          聖書 イザヤ59:1-2


神様と私たちを隔絶させるものは私たちの罪です。神様は義なる方、光のような方ですから、私たちの僅かな罪・穢れすら許されません。そればかりか、神様の恵みをいただくこともできません。また罪があると、力を失います。そうならないように、自らを省みて、十字架の赦しを確信し、悔い改めて神様と共に生きる者となりましょう。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 3月14日(水)14時15分27秒
返信・引用 編集済
  「彼らは天使に等しいものであり、また復活にあずかるゆえに、神の子でもあるので、もう死ぬことはあり得ないからである。」

                              聖書 ルカ20:36

イエス様が人の死後、どのようになるか語ったことばです。人は必ず死を迎えます。そのとき、肉体は朽ち果て失われますが、それですべてが終わるのではなく、魂は神様のもとへ帰り、霊の体を与えられます。天使のごとく、神様に仕え、神の子として永遠の命に生きるためです。そこでは親子、夫婦などの肉にあった関係は解消され、父なる神様のもとにある新しい関係が築かれます。

 

神の憐みによって。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 3月14日(水)10時42分31秒
返信・引用
  『神の憐みによって。』
キリスト教のお話をしていて、献金と、葬儀のお話の次に、必ずと言っていいほど話題になるのが、性の不一致で本来の性ではなく他の性に転換してある人たちのことや、同性愛者のことです。実は、これのみならず、両性具者のこともあります。このお話になると、強烈に批判されるキリスト者と、それを理解し受け入れようとするキリスト者がおられますよね。聖書には、ソドムとゴモラの話もあり、また、神様は、男性と女性を造られたとありますから、それを自然のものとし、結婚もその間で行うこととされていますよね。また、今、神様から与えられている性を他の性にして生きることも否定的ですよね、それから、これは、生まれながらにして二つの性を兼ね備えた人 両性具者もおられます。かの昔なら、断罪されたり、祖先の報いだと言われていたのでしょうね。しかし、現代は、その解釈は人権の問題にもかかわり、キリスト教界も次第に、受け入れるようになってきているようですね。と言っても、教会ごとに、指導者によっても、その解釈はまちまちです。正直、これでは、キリスト教のこれらの対応は、社会では、いったいどうなっているのかすらわかりません、困るのは、キリスト教界だけでなく、神を求めている これらの当事者も同じなのです。聖書は現代に合うように、いろいろ改変されている中、この方たちへの対応も、キリスト教界も教団教派を超えて、考えなければならないと思います。これらの人を病気と位置付けて、処理するのも 何かおかしいとも感じます。どんな体であれ、神の憐みによって、御許にくることを許されるというようにしてほしいよね。言葉遊びで、いろいろとってつけたようにしてほしくないと思いました。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 3月14日(水)10時28分33秒
返信・引用
  しかし、主は真実な方ですから、あなたがたを強くし、悪い者から守ってくださいます。

          第二テサロニケ 3:3
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 3月14日(水)10時16分38秒
返信・引用 編集済
  「種まきは御言(みことば)をまくのである。」

          聖書 マルコ4:14


種まきのたとえ話の一節です。神様の言葉である御言は種のようなものです。種は何ひとつ特徴のない平凡なものです。こんなものから何がでるかしらと思われますが、ひとたび地に埋められ、時がたつと芽が出て成長し、種の姿から想像できない草花や大木、野菜などになります。小さな種の中に命が格納されています。同様に、みことばに命が宿っていて、心と言う農地に埋められると驚くべき結果をもたらします。みことばを受け入れ、信じて、命を受けましょう。
 

私の信仰の原点

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 3月 9日(金)18時49分24秒
返信・引用
  『大草原の小さな家』

私が若かったころ、NHKだったかな、『大草原の小さな家』という アメリカの開拓時代の小さな家族を取り扱う番組があった。私は、キリスト者になって、キリスト教のアーミッシュという宗教団体のコミニティーの中で、昔ながらの自給自足をし、清貧 貞潔を守りながら暮らしている、その人達と重なって見えた。私は、そのころ 信仰もなかったが、なにか記憶に残った番組で、家族愛、隣人愛を 強く感じたものだ。この番組が、今の自分を形成したと言っても過言ではない。この中で、誠実、努力、忍耐、希望、友情などの大切なものを学んだ気がする。時々、アメリカのキリスト者社会のアーミッシュを取り上げられる時があるが、今でも、昔ながらのつつましい生活と、昔のいでたち、馬車などを利用し、生活しているのを見るとき、私は、この現代社会で、失われたものをそこに見るような気がする。

ちなみに、ご存知の方は少ないと思いますが、同じくNHKで

当時、放送されていた『タイムトンネル』という番組も、歴史を学ぶ上で、役に立ち、宗教改革のころとか、キリスト教弾圧の時代の場面は、今の信仰の学びに 大変役立った。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 3月 6日(火)14時07分6秒
返信・引用
  「彼らを外に連れ出した時そのひとりは言った、『のがれて、自分の命を救いなさい。うしろをふりかえって見てはならない』。」

          聖書 創世記19:17a

ソドムの町が滅ぼされるとき、神様はロトの家族を憐み、救ってくださいました。神の使いは彼らを町から連れ出して、「うしろをふりかえるな」と命じました。イエス様に救われた私たちは前に向かって進むのみです。過去の様々な事態や状況がどんなであれ、善悪にかかわらず、振り返ってはダメです。命を失います。振り返ったロトの妻は「塩の柱」になったといわれています。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 2月27日(火)09時55分27秒
返信・引用
  ねたみと党派心とのあるところには、混乱とあらゆる忌むべき行為とがある。しかし上からの知恵は、第一に清く、次に平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがない。

      聖書 ヤコブの手紙3:16~17
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 2月24日(土)22時34分50秒
返信・引用
  「主が命じられたのでなければ、だれが命じて、その事の成ったことがあるか。災もさいわいも、いと高き者の口から出るではないか。」

           聖書 哀歌3:37-38


忘れることはある意味で幸いなことです。苦しみや悲しみを忘れるから、今を生きることが出来るとも言えます。しかし、忘れてはならないこともあります。その一つは、自分がどのような状況から今に至ったのか、殊にイエス様の救いを受けた恵みです。永遠の滅びから永遠の命に生かされていることを常に新鮮な感動で受け止めるためです。感謝と喜びを日々新しくするために自らの出発点をはっきりしておきましょう。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 2月20日(火)10時10分18秒
返信・引用
  「神は言われた、『ここに近づいてはいけない。足からくつを脱ぎなさい。あなたが立っているその場所は聖なる地だからである』。」

           聖書 出エジプト3:5

モーセはホレブの山で野火のごとく燃えている柴が燃え尽きないのを見て、不思議に思って近づいた時、神様の声を聴きました。「足からくつを脱ぎなさい」と。裸足になるのは奴隷になることでした。神様はモーセに絶対服従を求めたのです。モーセに期待するところがあり、神様の偉大なわざを始めるためです。私たちを用いて事をなそうとしておられる神様は、徹底的に従う者を求めています。
 

教会選び。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 2月13日(火)13時34分48秒
返信・引用
  『納得するまで教会選びはするべし。』
教会を選択するとき、私は、本人が納得するまで選びなさいと言っている。教会にも様々な教会があって、一歩間違うと異端の教会や、カルト的な教会、信徒を支配する独裁的な教会、牧師が特定の思想信条にこだわっている教会などがあるからだ。また、本人との相性もあるよね。教会だったら、どこでもいいというわけではないしね。引っ越しで教会を決める方たちは、ある程度のことは御存知なので、いいけども、初めての方となると、選択するとき、困難を極めるよね、だって、行ってみない限りどんな教会なのか見当もつかないからです。それ故に、初めての方などは、何か所も教会巡りをするわけです。そこに、ベテランの信徒は、こう投げかけるよね、あなたは、ジプシークリスチャンなの、こう言われると さすがに傷つきますよね。その上に、教会はどこも同じよ、イエス様を見上げればいいの、確かに 正論ですが、おいおい それじゃ 自分に合った、適した教会を選ぶことは、まちがっていることなのかと問いただしたくなるよね。教会が適さなかったばかりに、何人の人が、傷ついて教会を離れていったことを知らないのですかと、問いたい。人も色々いて、すぐに順応できる人もいますが、それができない人もいるのだ、そういったことに、鈍感なところがあるよね。信仰という 心の部分のことをゆだねるのであるから、誰だって、慎重になる。だから、教会選びは、じっくりしたほうがいいし、長く教会が定まらないでもよいと思う。本人の選択だし、納得するまで選ぶべし。
 

独り言

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 2月12日(月)20時53分51秒
返信・引用
  『聖書は、人の弱さと、人のできないことを書いているよね。』


ひところ、人生の勝ち組と負け組という言葉が流行していたよね。その人の人生において高学歴、社会的地位の高さ、富の豊かさで、その人を勝利者として讃えていた。一方、何の地位もない人や、学歴の低い人、富がなく貧しい人を 人生の負け組と称していた。私は、どちらにせよ、勝ち組 負け組と、人を区別するのが嫌いだった。信仰的においても、イエス.キリストの教えは、貧しく、弱いものに寄り添うことだったよね。これは、教会においても、その社会的地位 学歴 富の有る無しに かかわらず、等しいとされていたし、メッセージにおいてもよく語られることだが、残念ながら、一部の牧師は、その身なりや、社会的地位、富の豊かな人に対して、他から見てもわかるほどの優遇をしている。ひどいときには、貧しい人や社会的地位のない人を無視して、まず、裕福な人や、社会的地位の高い人のもとに、挨拶をしに行く、その時に、信仰者たるものが、指導的立場にあるものが、かくもこのようなあからさまなことをしていいものかと思ったりしてしまう。教会指導者も やはり弱いものだと思うし、信じるは、神のみと思う。
 

知識過剰が招くもの。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 2月10日(土)11時44分17秒
返信・引用
  『グノーシス主義』が示す、知識過剰な結果。


聖書の時代から、過剰な知識は、正統的な信仰をむしばんでいた。皆さん キリスト教の初期、異端視されたのは、グノーシス主義なるものでした。正統的なキリスト教を脅かすほどのものでした。それは、秘儀的に知られる奥義的な神的知恵のことです、その萌芽は万人に与えられ、グノーシスに達すれば、要約すると、知識を獲得すれば、本来的な『自己』を獲得できるというものです。イエスは、このグノーシスに到達した いわば先達なのです。誰であれ、このグノーシスに到達したならば、『本来的自己』に目覚めたのであり、それゆえに非本来的な諸対立を超えて、本質的に神的な『一性』に生きる者となるのであり、それゆえに『永遠の命』に与かっているのだという主張をしていた。このグノーシス主義の方向が徹底されれば、十字架の贖罪的理解も、復活の事実性も否定されてしまうのです。しかも、グノーシス派は、自分たちこそが正統的だと主張したから、正統派にとっては、最大にして、最強の異端と当時 断罪されたのです。まだその他にも、異端の出現はありますが、このように、知識が過剰になった段階で、このような異端は、出現するのです。このことを反省しなければ、いつの世も、異端との戦いになるものなのです。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 2月 6日(火)14時33分32秒
返信・引用 編集済
  「わたしは公平を、測りなわとし、正義を、下げ振りとする。ひょうは偽りの避け所を滅ぼし、水は隠れ場を押し倒す。」

                聖書 イザヤ28:17


神様は「義」なる方です。たとえ、私達が表向きの正しさを装っても、やがてそれらの虚偽をはぎ取って、真実を白日の下に明らかにされます。ですから、日々の生活を、表裏のない、真実に生きることが大切です。虚栄や虚飾、建前ばかりの歩みは、かならず行き詰まるからです。有りのままに生きようではありませんか。
 

毎日の聖書

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 1月16日(火)13時00分41秒
返信・引用
  しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

       聖書 使徒 1:8
 

毎日の聖句

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2018年 1月 6日(土)19時58分43秒
返信・引用
  「主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない。」

              聖書 イザヤ40:7-8


人は、朝に萌出て夕べに枯れる草木のように、はかなく脆い存在です。最近の世界情勢を見ても、ちょっと歯車が違うと積み木崩しのように壊れてしまいます。しかし、神様のことばは不変にして不動のものです。弱い私たちが神様のことばに結びつく時、堅牢なカプセルに守られるごとく、永遠のいのちに生きることが出来ます。






 

沖縄の教会の思惑

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年12月19日(火)11時37分54秒
返信・引用
  『沖縄の教会の思惑』

沖縄県では、米軍ヘリの落下物による、問題が発生している、その中には、現在、疑惑にあるものもありますが、米軍が認めた、落下物もあります。この点において、私は、米軍への整備の徹底、危険な飛行コースの回避、綱紀の粛正、を要求することは、当然だと思っています。また、そうしなければ、今回は、人にあたらなかったとしても、人にあたる危険性は、充分に考えられます。沖縄の教会では、バプテスト系ですが、その事に抗議するための用紙に信徒の署名を求める動きがあります。それが その抗議に留まるならば、それはいいと思いますが、今までの経験で、沖縄では、その署名の際に、辺野古の埋め立て反対なども盛り込むことがあります。はっきりいいますと、結果として、政治利用されるのです。
私は、宜野湾市にある普天間基地から、そう遠くないところに住んでおりますから、危険を取り除くためにも、辺野古移転に賛同する者です。また、アメリカ政府と、日本政府の覚書で、5年くらいの間に、移転すれば、普天間基地を返還することで合意しておりますから、当然、その跡地利用の方も、宜野湾市は、市の開発計画を策定しています。とはいえ、宜野湾市民の置かれた立場は、微妙なのです。普天間基地が移転するのは賛成であっても、同じ沖縄県の米軍辺野古基地の海上を埋め立てて、そこに移転させることなので、賛成することを口に出すことを遠慮している傾向があるのです。かといって、他の基地に、移転することも ままならず、代替地も決まらず、途方に暮れている状況の中で、この事故は、発生しました。偶然と言うか、辺野古を抱える名護市の市長選を控えています。そのことに、沖縄の左派や、県外の反対運動の市民団体、沖縄県政与党は、これは、選挙に使えると思い、またもや事故を政治利用とする動きも見え隠れいたします。こんなことをしていては、辺野古の埋め立てを阻害され、宜野湾市民は、危険の中に 相も変わらず さらされていきます。一刻も早く危険を取り除くために、政府は、半ば強引とも思える、埋め立てを実行しています。またアメリカ政府との約束もありますから、早急にしなければならないのです。その約束を破れば、移転計画は解消されてしまうのです、だから、そのことは、よく理解できます。反対派の妨害は、結局 宜野湾市民を危険にさらすのですから、控えてほしいですね。このような背景の中で、辺野古の埋め立ては、実施されているわけです。少しでも、皆さんに理解してほしいと思っていますし、沖縄のキリスト教会が、政治に、口出しすることは、結局 この争いの渦の中に自ら、巻き込まれていくことになるのです。
その中に、多くの、賛成派と、反対派が、おられることを理解せねばなりません。あくまで、教会の立ち位置は、どうであれ、中立 公正 です。また、教会の役割は、政治に干渉することではなく、御言葉を述べ伝えることです。何より 礼拝するところです。祈るところです。御霊の一致を求めるところです。教会に、牧師に、どんな理念があろうとも、其れこそが優先されなければなりませんよね。
 

心に響く メッセージ

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年12月 8日(金)14時38分35秒
返信・引用
  アーサーホーランド牧師の記事をシェアーさせていただきました。
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『THROUGH YOU』 (あなたを通して)

「あなたを通して
本質の愛はあらわされる」

IT'S ALRIGHT…大丈夫である。
NEVER MIND…心配することはない。

JUST DO WHAT YOU WANT TO DO…
只、あなたがやりたいと
思うことをやってみるといい…

人は人であり、
あなたはあなたなのだ。
人が如何思うのか…と気にしても仕様がない…

今こそあなたが如何したいのかに
集中してみることだ。

「あの人はどうなんですか…」
とヨハネを指差しながら問うたペテロに

「わたしがヨハネに生きながら
えることを望んだとしてもあなたに
何の関係があるのか…
あなたはわたしに従がって来なさい…」
とJESUSは答えられた。

人のことをとやかく気にするよりは、
あなたが大いなる方と共に
行動であらわして行かなくてはならない
使命があることを忘れてはならない。

THE BIBLEには
「何をするにも大いなる存在の
栄光のためにするといい…」
とある。

あなたにできることがある。
いや、あなただからこそできることがある。

「心と思いと知性と力をもって
あなたの主である大いなる方を愛せよ…
また、自分自身愛するように
あなたの隣人を愛しなさい…」
とJESUSは謳っている。

今日という日があなたにとって大いなる方に
愛されていることに気づける日であります様に…

また自分を愛する様に周りの人に、
その愛を分かち合える者となります様に…

『愛されていることに気づけば己にも、
周りにも善き影響が及ぶ…』

アーサー・ホーランド
 

日々の聖句

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年12月 5日(火)21時45分18秒
返信・引用
  「人の子よ、ぶどうの木、森の木のうちにあるぶどうの枝は、ほかの木になんのまさる所があるか。」

          聖書 エゼキエル15:2



ぶどうの木は他の木々と違って、ぶどうの実を収穫する以外になんの役にも立ちません。建築材にも、家具や建具にも使えません。実らないぶどうの木は切り取られて焼かれてしまうだけです。それと同様に、神様の創造の目的に適わなければ私たちもまたぶどうの木同然です。ぶどうの木であるイエス様につながる枝となって、実を結び、農夫である神様に喜ばれようではありませんか。
 

組織と個人

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年11月21日(火)10時06分54秒
返信・引用
  『組織と個人。』(大相撲の暴力問題より)

今、巷をにぎわせている大相撲の力士による暴力問題だが、
この決着がつきそうにないというより、
真実が、有耶無耶にされて、何が真実かわからないし、
ただ、暴力問題では済まされなくなってきているよね。
ところで、
私は、この件を
題があって教会組織に、信徒個人で、戦っている人たちと重ねて見えた。
組織は絶対的な力を持っている、
個人で戦っても、とても歯が立たない、
それこそ、隠ぺい体質が、同業者へのかばいが、
時には、牧師や教会を守ろうとする同じ信徒からの反発すら受ける。
ひたすらに醜いことを公にしないように、沈黙を守る。
個人に、いくら、非がなくても、
あたかも、個人のせいのように言われてしまう。
だから、組織に対抗することは、傍が思うほど、簡単ではないよね。
場合によっては、その事を語るということは、
教会から離れる覚悟がないとできない。
牧師を神の代理人と考えている人たちが、多いからだ。
簡単に言えば、教会や、牧師に逆らうことすらできないし、
背くことは、配信の罪とも言われ、排斥の対象にされてしまうのだ。
何か、この大相撲の、暴力問題は、その事を考えさせられる。
被害者の貴ノ岩の親方が、これを公にしてくれているように、
個人の信徒にも、
その事を理解する牧師が付いていれば、まだ救われるよね、
それを強く感じました。
今、教会で問題が起こることは、減少してきているらしいが、
いまだに、存在するから、
現存の牧師たちにもそれらの理解をするように、
そして、
保護するように協力してもらいたいと願う。
なにか徒然なるままに書いたので、
意味不明のようになりました。
 

今日の聖句

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年11月17日(金)21時11分55秒
返信・引用
  「目を高くあげて、だれが、これらのものを創造したかを見よ。」

          聖書 イザヤ40:26a
神様を信じると言いながら、どのような方だと信じているのでしょうか。聖書が伝える神様は天地万物の創造者、全知・全能なる神、時間空間を越えて存在しておられる方です。と言われても、具体的なことは何ひとつ分りません。人の知識では到底知り尽くせない方ですが、神様はご自分を知って欲しいと願っています。そのため、いろんな事件や事態、事柄の中にその片鱗を現しておられます。心の目をひらいて、神様を発見してください。
 

今日の聖句

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年11月17日(金)10時28分18秒
返信・引用
  「われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください。」

              聖書 詩篇90:12


この地上での生涯は永遠に続くものではありません。必ず、終わる時がきます。ただ、それがいつであるか、だれも知りません。そのため、いつまでも続くものと錯覚しています。始まりと終りを知って、今がどのような時であるかを自覚することが大切です。ある人の歌に、「今は人生の何章目だろうか」という言葉がありましたが、あなたはそれを知っていますか。
 

やはり ピュアな人がいい。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年11月 8日(水)10時45分55秒
返信・引用 編集済
  『やはりピュアな人がいい。』

政治的に野党支持をする方に
与党のことをどんなに語ったとしても、
そこに居場所を見つけた以上、
理解してもらえることなどありえない。
信仰の世界においても、
教会や、牧師に飼いならされた信徒には、
何を語っても無駄と感じる。
そこに居場所を見つけ、
特定の人から認められた環境では、
そこから他を見る余地はないのである。
間違おうが、間違っていないとしても、
ただひたすらに従っていくのである。
その事を違和感を持たないのであるから、
本人は、それを信仰熱心と考える。
もし、これが、聖書的に間違っていたとしても、
牧師だから、神の権威で語っているから、
間違いなどあるわけがないと堅く信じている。
指導者が悪意をもって、教えをゆがましても、それすらも信じる。
そして、
批判などは、全くしない、黙して語らず状態を維持し、
その上に、
何でも、肯定し、イエスマンと化し、言われたままを信じる。
盲人の道案内状態となる。
ここに、カルトが誕生する土壌が完成するのだ。
だから、
口を制すという御言葉を使いたがるのは
危険な兆候でもある。
健全な教会と言うのは、健全な牧師と言うのは、
常に、批判を受け取る体制を持っている。
これこそ、大切なことなのだと思う。
そして、何か疑問がある時には、
恐れずに、語ろう。
語る時期には語ろう。
信仰の道は、迷うこともあるし、躓くときもある。
それは、いたって、健全な信仰者であるともいえる。
まかり間違っても、
何でもかんでも、はいはいと言わないようにしよう。
それゆえ聖別なるものが あるのだと思う。



 

教会から政治色を分離せよ。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年10月 6日(金)16時44分31秒
返信・引用
  『主の教会から政治色を追放せよ。』【政教分離】
キリスト教の教会は、牧師は、どちらかと言うと「左派色」に染まっている。はっきり言うと、教会指導層は野党側に立ち 教会にて 信徒に神の言葉を取り次ぎながら織り交ぜながら誘導している。そもそも 教会とはイエス様の体なる教会に、その信仰ゆえに集まっているのだ。また、教会とは、「神を礼拝する場所」であり、「祈りの家「」である。この場所から、政治的なことを語る場所ではないのだ。いかなる教会も牧師も「中立公平」でなければならないのだが、人間は不完全ゆえに、それは、できようはずもないので、教会から政治色を打ち出さないことである。これは、厳守すべきである。もちろん、左派 右派 リベラル 全てである。
キリスト者は 教会の語る 権威ある神の言葉に全幅の信頼を持つのだ。そのメッセージに、教会指導層の政治色が織り込まれるなら、教会会員、並びに信徒は、其れに影響されることは間違いない。今日も、その事態は変わらない。キリスト教の新聞、チラシにまで、特に左派系の書きようである。信徒は、それによっても、誘導されてしまうのだ、カルト宗教は、マインドコントロールとしても その手を使うのだ。そのカルトと、同じように、教会の中で、指導層が特定の政治思想を流布しているから、大きな罪なのだ、個人的な場所で、個人的な思想を持つことは、自由だ、しかし、教会には、与党支持の方や、野党支持の方まで、また、思想信条も違う ありとあらゆる人が来るのだ、だからこそ、教会では、いかなる理由があろうが、政治色を出してはならない。

 

信仰のお話

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年10月 5日(木)21時31分29秒
返信・引用
  今日 介護の仕事で、私が担当している利用者さんのところで、仕事が終わってから、信仰の話をした。それまでに、伝道用の新約聖書、コンサイスバイブルなど、関心があったら、読んでみませんかと置いていた。その方は、仏様が好きとは知っていましたが、イエス様もいいよ、なんて言ってましたら、今日、介護に行ったら、イエス様の話をたくさんされた、詳しく教えてもいないのに、驚くほどよく知っていた。イエス様に関心を持ったようで、ほんとによかったです。いつか、旧約聖書もプレゼントしようかなと思いました。一人暮らしの方なので、いったん読みだしたら、とことん読まれる方なんですよ。時々、変な話もされますが、頭の切れはいい方なんです。私より2歳年上の男性なんです。
 

日本型のキリスト教へ

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 9月19日(火)10時56分16秒
返信・引用
  『模倣から、日本型のキリストへ。』(個人的見解)

キリスト教の教会が、日本に定着するように考える時、
やはり
日本文化に溶け込むこと、
受け入れられることに、
着目すべき時に来ているような気がいたします。
先ずは、
日本人に、受け入れられているものとして、仏教がありますが、
日本風建築と、畳の上の説法から、学ぶところも あります。
なにも、
韓国や、欧米の形式を模倣する必要は ないと思っています。
畳のことでは、
立ったり座ったりして、大変だという方もおられますが、
座ったままの礼拝を 行えばいいと思っています。
礼拝の現在の形式は、
外国からの、影響を受けています。
それに固守っする必要はないと思っています。
また、
聖書のを真理を曲げるようなことではないので、
許されると思います。
イスの代わりに、畳の上で、
牧師と、同じ目の高さで、同等の関係で 礼拝する。
講壇から メッセージをすることは、
信徒と牧師の 案に 地位の関係を表しているとも言えます、
「万人祭司主義」にそって、
同等の位置で、話す、接する、
これにより、牧師を 身近に感じられるはずです。
権威を 好む方たちもおられますが、
あえて、この方式がいいように感じます。
神様は、天におられますから、
なにも、失礼なことでは ありません。
聖書にあるように、
『霊と真』によって、礼拝すればいいだけのことです。
私は思う、
かのパウロは言った、
『異邦人に 伝道するときは、異邦人のようになりなさい』とね、
また、
*イエス様は、幕屋を取り払われた*
そのことで、
祭司職のみが近寄れた、祭壇に
私たちも、近づくことができるようになったと。
この事を 考えました。

そして
牧会する牧師も、
日本文化に精通した、『日本人牧師』を極力 採用することですよね。
偏見で言っているのではありません。
その事は、
日本型のキリスト教を目指す時、
大きなファクターともなるからです。

それから、
人によっては、若者が来なくなるという方もおられますが、
それも一理あります、
しかし
日本に根付くキリスト教を目指す時、
広範囲な年齢層に、支持されることが大切です。
人集めのために、
若者に受け入れられることだけに終始すると、
それは、何か違うような気がいたします。

他にもありますが、
ざっと言えばこのような感じです。
『日本の教会にくると、外国旅行をしているようです』と、
ある人がおっしゃいましたが、
その時、
はっとしたものです。
そこに 多くのことが語られていると思います。
『日本の教会に来ると、日本らしくて落ち着くわ』と言われたいものです。

敷居を下げて、プライドを下げて、
たくさんの人たちから、支持される
日本のキリスト教界でありたいですね、
そして、
日本の教会が、そのことに目覚めてほしいです。


 

人間関係の問題。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 9月11日(月)19時24分6秒
返信・引用 編集済
  『人間関係の問題は』

アドラーという方の本に最近傾倒している。

その中で、「嫌われる勇気を持とう」と言うのがあったが、
やたら、なるほどと共感したものだった。

ところで、人間関係で、問題があると、
その問題があった場所にかかわりたくないと思うのが、
普通の精神状態です。
しかし、
アドラーは、自ら人間関係のわずらわしさのある所でないと、
その人間関係の問題も、解決しないというのだ。

ふと思った、
人間は傷つける存在だが、
癒しも人間が、与えてくれるのだとね。

人間関係で問題があったのなら、
あえて、
問題のあった場所にかかわることで、
その問題も なくなるということだった。
なにか、納得できない感じは受けるが、
そうなんだと思うことにした。

それから、
イエス様がそんな時には、常にいてくださるから、
先ず、そこに安心感があるね。(*^。^*)
 

那覇バプテスト教会  主日第一礼拝

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 9月10日(日)15時15分47秒
返信・引用
  『那覇バプテスト教会 主日第一礼拝より』


[僕の祈り―御心を求めてー]


「こうして彼がまだ言い終わらないうちに、見よ、リベカが水瓶を肩に載せてでてくた。」

        創世記 24章15節


今日は、祈りについての特集のようなメッセージでした。
簡単に言うと、
祈る先に、
すでに主は答えを用意してくださる。というものでした。



信仰の父アブラハムは最大の試練と言うべき、
息子イサクを捧げなさいとの主の御命令を乗り越え、
円熟した信仰に達していました。
しかし、
どのような段階の信仰者であれ、
人生において
悩みや、問題がないということはあり得ないことです。
齢140になるアブラハムの唯一の悩みは、
息子イサクに相応しい連れ合いが与えられていなかったことです。
それは、
アブラハムに与えられた子孫の約束の実現ためにも不可欠であり、
その頃、
妻サラが死んだことによる寂しさもあり
急を要する願いになってしまいました。
アブラハムは、信頼する僕依頼し、
イサクの嫁を連れてくるように命じたのです。
異教の神々を信じているカナンの地ではなく
自身の故郷から、真の神を信じる女性をという命令です。
これは、膨大な時間を要する可能性もある仕事でした。
僕はナホルの町に着くと、、先ず祈りました。
その祈りは、
「今日私たちのために、どうか取り計らってください。」
という 率直な祈りでした。
水を求めたら、らくだにも与えた娘がその人であるかのように、と。
祈り終える前からリベカはすでに来ていました。
そして、その通りにします。
祈る先に すでに主は、その答えを用意してくださるのです。



 

備えあれば、憂いなし。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 9月 9日(土)10時26分49秒
返信・引用
  『備えあれば憂いなし。』

昨今、北朝鮮の、軍事挑発が顕著です。
日本政府は、防衛費を
GDPの1パーセント以内に
どんな時も抑制していましたが、
世界各国の防衛費は、
日本の防衛費をはるかに超えて、
毎年、増額しています。
その結果、
日本は、防衛力の低下が、顕著になってまいりましたよね。
何かあれば、外交で解決すればという方もおられますが、
現実は、
外交は軍事力なのです。
軍事力が 背景にある国は、交渉の相手になりますが、
無ければ、はねのけられます。
また、
北朝鮮に対応するため、
自衛隊の迎撃装備も、疑問視されていますが、
では、
それ以外に、何の方法があるでしょうか、
迎撃システムは、
高価で、しかも、
その実力は 100パーセントではないかもしれません、
しかしながら
たとえ、100パーセントの迎撃ができなくとも、
被害を 小さくできることは事実ですよね。
国民の 財産と生命を少しでも守れるのであれば、
装備する価値はあるでしょう。
100パーセント迎撃できないなら、
無駄と言う人もいるでしょうが、
これは、おかしな話です。
北朝鮮の 核とミサイルに対応できることは、何でもやる。
これしか今は ないと思っています。
また、
周辺国が、緊張を与え、軍備を拡大している中で、
日本だけが、軍事力を抑制し、防衛力の低下を招くとき、
周辺諸国は、
日本の領土、資源を狙ってくることは、
はっきりしていますし、
現に そのような事態と、遭遇しています。

防衛費をあたかも、無駄のように語る人もいます、
子供に使えばいいと、
社会福祉に使えばいいと、言う人たちもいます。
多分、その人たちは、
日本周辺のことについて、無関心な方たちです。
何が起こっても、わからない人たちです。
日本が、今、
どのような立場に、いるのか把握できないのです。
今さえ、平和であればよく、
今さえ 楽しむことができれば いい方たちです。
しかし、
事が起きて、日本が危機的になれば、後悔するでしょう。
その時は、遅いのです。
今のうちから、
日本の守りの備えは、しておくに越したことはありません。
それには、国民の理解も必要ですよね。





 

譲れることと、譲れないこと。

 投稿者:ヨハネの洋チャン  投稿日:2017年 9月 1日(金)09時10分29秒
返信・引用
  『譲れることと、譲れないこと』

北朝鮮の核とミサイルの問題で、
今、日本中の問題となっていますね。
そんな時
あるマスコミが軽率な発言をしていました、
北朝鮮の核とミサイルを、認めたらどうでしょうかと。
これは、後先考えない とんでもない発言です。
これを認めるということは、
将来的にも、北朝鮮の暴挙と恫喝を受け、
更には、
北朝鮮の要求をのみ続けることになります。
しかも、それは、
韓国と日本の核武装の開始にもなります。
当然、対抗のため、抑止のために、現実となるでしょう。
そうなれば、中国、北朝鮮、は、もとより
韓国、日本と、核保有国ばかりに なって行きます。
しかも、北朝鮮の経緯を見ると、
核を 暴力集団や、シリア、イランなどに、
売却することも、考慮しておかなければなりません。
こうなると、もう。手が付けられませんよね。
だから、
私たちは、何としても、
北朝鮮の核と、ミサイルを容認してはならないのです。

特に、私たち、キリスト者は、今の平和のためならば、
北朝鮮の 核とミサイルを認め
戦うことは、したくないとないうでしょう。
しかし、
その時は 良くても、
後に、その代償を 払う時が必ず来ます。

今思うのですが、
北朝鮮が そこまでになる前に、なぜ、手を打たなかったのでしょう。
大きな火事になる前に、火種を消さなかったのでしょう。
時に、
大きな決断と、勇気も、必要だったと思います。
いたづらに 時間的猶予を与えてしまい、
開発を促進させたのです。
もの事には、
『譲っていいことと、譲ってはいけないこと』があります。
私たちも、そのことを考えないと、このような、不安が、
将来にわたって、続くのです。





 

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